ここから本文です

2011/02/04

<随筆>◇ハンバ事件とは何ぞや◇ 産経新聞 黒田勝弘 ソウル支局長

 行きつけの食堂の女主人の口ぐせに「ユドゥリ」という言葉がある。たとえば「男なんだからもっとユドゥリ(つまり余裕)をもってやりなさいよ」といった調子だ。

 最初、何のことかわからなかったが、そのうち「ユトリ」のこととわかった。日本語の「ユトリ」がなまって「ユドゥリ」になったのだ。彼女にいわせると、お母さんやおばあちゃんがそういっていたので使うようになったという。結構、今でも耳にするという。

 で、そのお店が閉店のころになってぼくが「マムリが大切だよねえ」といったところ、彼女は「そのマムリも日本語ですよね」という。「マムリ」とは「仕上げ」とか「最後の段階」といった意味の言葉だが、これが日本語のはずはない。

 「何言ってるの。それはれっきとした韓国語じゃないの!」と注意してあげたが、ついでに「客の入りが悪いといって文句ばかり言ってないで、ユドゥリをもってやりなさい」とお返しをしておいた。

 彼女にはもうひとつ、よく使う日本系外来語に「ムテッポウ」がある。これも韓国社会にはかなり定着していて今でも耳にする。これが登場すると、ぼくは必ず「無鉄砲」と漢字を書いて語源を説明してあげるのだが、大いに感心される。ところで年初から韓国のマスコミに毎日のように奇妙な言葉が登場し、首をひねらされた。「ハムバ事件」とか「ハムバ・ゲート」というのだが、この「ハムバ」がわからなかった。どこか会社の名前なのかしら?

 あとでわかったのだが日本語の「飯場」のことだった。「ハンバ」が「ハムバ」となって韓国社会で使われていたのだ。これはちょっとした驚きだった。

 なぜ「ハムバ」がニュースに登場したのかというと、建設現場での作業員宿舎のような施設は行政当局の許認可事項になっていて、その許認可をめぐって警察と業者の間でワイロ事件があったというのだ。建設業界の知り合いに電話して聞いてみると、「ハムバ」は今でもよく使っているという。そういえば「ノガタ」もあったなあ。「土方(どかた)」がなまって「ノガタ」になったのだが、これは本来の建設現場よりも日常的によく使う。つらい仕事とか苦労の多い仕事などを意味するが、陽のあたらない下働きということで政治家などもよく使う。

 ユドゥリやハムバ、ノガタなどは仕事や作業にかかわる言葉といっていい。広い意味では技術にかかわるといっていいが、日本は歴史的にこの分野の素朴段階で韓国社会に影響を与えたということだろう。

 それにしても、車をバックさせるときに今でも「イッパイ、イッパイ!」などと言っているのは面白い。この言葉はマイカー時代に合わせ逆に生き返り、広がっているようにみえる。日本人にソウル暮らしはやはり面白い。


  くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者を経て、現在、産経新聞ソウル支局長。