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2011/06/17

<随筆>◇私の日本留学◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授

 私の日本留学には最初から無理があった。日韓国交正常化となり、石田英一郎先生、泉靖一先生などが来られ、韓国文化人類学会で講演会が行われた。私はその時、幹事をしていた。1972年、ソウル大学の恩師の李杜鉉先生の紹介で日本留学をにわかに決心した。海外への持ち込み制限額200㌦を持って日本に来た。ある教会で泊めてくれるという期待を持ってきたが、そこの長老から「教会は旅館ではない」と断わられ、期待は外れた。持ち金は数日間の滞在費に過ぎなかった。私は突然飢え死にする境地になっていた。さらに私は高い学費を払わなければならなかった。兎に角その頃は常に無銭の状況であった。

 日本語ができず、私は完全に気力も失った。書籍販売会社で労働、食堂や洗車所などでアルバイトをした。さらにアパート探しも難しかった。ほぼ決まる段階で韓国人であることを不動産業者が大家に言った時、丁寧に後で夫と相談の上連絡しますとのことであった。私はその言葉をそのまま信じて嬉しかったが、同行した友人は不可能であろうと言った。その通りであった。ようやく見つかったアルバイトでは、「いくら出せばいいか」と聞かれて「貴方の判断におまかせします」と答えて、報酬の入った封筒をもらった。たったの一万円であった。最初の日本人との仕事上の出会いがこんな状況であり、大いに失望した。しかし考えてみると自分がしっかりしていなかったからである。

 朝鮮奨学会、米山奨学金も不合格だった。英語塾の教師へ推薦により面接に行ったこともあったが落ちた。そんな最中に指導教授を亡くし、浮いてしまった。私はすべての日本人の先生から疎外されたような気持ちになり、地獄に落ちた感じであった。さらに日本の気候に適応できず腰を痛め、激しい労働で結核の再発の憂いが襲ってきた。

 しかし辛い思い出ばかりではなかった。柳東植先生のように最後まで信頼してくれて、相談に乗ってくれた方もおられた。そんな私に柳先生はポケットに残っているコインをくれた。それは貴重な恩恵のお金であった。後に伴侶の幸子に出会ったことも幸運だった。そんなある日、大学の階段で一万円札を拾った。貧困の境地にあった私にとって正直さのテストであった。事務室に届けてほっとした。また民団で世話になった老人から私がお金を盗んだと非難され、相手の勘違いだとわかっていたが、私は賠償した。後に彼がそのお金を戻しながら自分の間違いであったことを詫びてくれた。

 東京大学の中根先生の研究会で発表し、伊藤、末成、嶋の諸氏の協力を得て学位論文を準備したが、成城大学は最後まで学位を認めてくれなかった。後に筑波大学の芳賀登先生の推薦で宮田登先生が主査となり、指導を受けて論文を提出し、文学博士の学位を取得したのは望外の喜びであった。その時にはすでに13年の歳月が流れていた。


  チェ・ギルソン 1940年韓国・京畿道楊州生まれ。ソウル大学校卒、筑波大学文学博士(社会人類学)。陸軍士官学校教官、文化広報部文化財常勤専門委員、慶南大学校講師、啓明大学校教授、中部大学教授、広島大学教授を経て現在は東亜大学教授・広島大学名誉教授。