「昨夜、姉が旅立ちました」。7月上旬、故郷の同級生から悲しいメールが飛び込んできた。病状が深刻とは聞いていたが、でも訃報はあまりに唐突だった。メールの主は小学生時代からの同級生で、彼女のお姉さんは小学1年生の時の恩師だった。
父を早く亡くし、山深い母の田舎の小学校に入学した私は病弱で学校も休みがちだったが、それでも学校は楽しかった。若い担任のT先生の笑顔は花のように美しかった。私はいつも優しい先生につきまとっていた。仕事で留守がちの母親役を先生に求めていたのかもしれない。今から思えば、初恋だったのかもしれない。
「ケンちゃん、ケンちゃんでないんけの?」。5年前、KTXソウル駅で待っていた私に、故郷なまりの大きな声で駆け寄って来た初老の女性がT先生だった。何十年振りだろう。隣には恩師の妹さんが笑っていた。T先生は朝鮮(当時)生まれだった。お父さんの仕事の関係で、先生は新義州(今は北朝鮮)と京城(今のソウル)で青春時代を過ごされた。昔、一家で楽しんだ総督府の桜を懐かしんで、姉妹で釜山経由ソウル観光に来られたのだ。残念ながら総督府跡地の桜は伐採されていたが、ソウルの街に残る京城時代の面影を先生と一緒になって探し回った。優しい笑顔は昔と同じだった。
帰国された先生から愛読書「白い花と赤い風」という本を送って頂いた。1979年発行(中村昭夫先生著)で紙面はかなり色褪せていたが、日本時代の新義州の生活や風俗がいきいきと描かれていた。一気に読み終えた。当時の新義州は日本人、中国人、現地人を交えて人口5万人の都市で平安北道の中心地として栄えていたらしい。中学校や女学校は日本人だけでなく現地の一部の学生も一緒に学んだようだ。T先生もソウルに来られた時、「京城第三高女」の韓国人同級生と再開して涙を流しておられたが、卒業後の2人は時代の波に翻弄されたに違いない。日本の敗戦後、先生一家が必死になって帰国した経緯など2人の話は尽きる事がなかった。2人はすっかり女学生に戻っていた。
先生が愛読書を送って来た理由は分かるような気がする。日韓を巡る問題意識はややもすると両極端に流れやすいが、韓国滞在10何年を振りかざして偉そうに講釈を垂れていた私を、「まずは当時の真実を知ることよ」と先生は昔と同じように優しくたしなめてくれたものと思っている。
日本に飛んで行けないもどかしい気持ちのまま、アパートの前で雨に煙る釜山の海を眺めていた。海の向こうに先生が眠っている。でも、もう会えない。涙が止まらなかった。激しかった雨が上がった夜遅く、白い靄が辺りを埋め尽くした。海も島も何も見えない。「ケンちゃん、元気でね」。突然、白い靄の中から先生の優しい声が聞こえてきた。
おおにし・けんいち 福井県生まれ。83―87年日商岩井釜山出張所長、94年韓国日商岩井代表理事、2000年7月から新・韓国日商岩井理事。09年10月より韓国TASETO株式会社・専務理事。