秋夕前後に故郷の父母の墓参りをよくする。生まれ育った村が変わった。工場が建ち、牧場が広がった。故郷が変わったことを、なぜ寂しく感ずるのだろうか。村人は発展と思うかもしれないが、私にはすべてが疲弊と感じた。村の象徴的な背の高い朝鮮松も無くなって懐かしさはない。
昔は親族が集まって住んだが、今は知っている人はほぼいない。親族組織の門中は墓祭りもせず、その機能はなくなった。門中を代表して守るべき宗孫という人は私の世代から3代も下がって赤の他人のような存在になっている。私が省墓しても現れることもない。私が子供の時に滑って遊んだ先祖の墓の群れはなくなり、今は私の父母の墓しかない。しかし開発のために移葬が迫られている。生まれ育った家には今は他人が住んでいる。
私が10歳頃、ソウルに転学しても母が家を守っていた時は、特に秋夕にはソウルから数十㌔の距離を歩いて帰省したこともある。ソウルから戻ると我が家は天井が低く感じられ、貧乏くさく感じたけれども、それでも故郷が良かった。
韓国戦争の後、米軍キャンプが駐屯して、一時売春村のようになっても村はそれほど変わらなかった。まだ人情があって、私の真の故郷であった。北朝鮮との国境である休戦線の恐怖もあって開発されず村は変わらなかった。
しかし金大中大統領の太陽政策によって南北関係が融和し、この休戦線近い村も地価が上昇し、村人の経済観が変わり、開発優先となり、人情や伝統的な慣習は一気に無くなっていった。大部分の親族は土地を売って大都会へ出て行った。アメリカへ移住した人もいる。
私はただ一つだけ故郷と縁を持っていて強く精神的につながっている。それは父母の墓である。墓は祖先信仰の崇拝でもなく、親孝行でもない。ただ私の父母への愛情であり、故郷との絆である。真面目で勤勉な父から儒教、母からはシャーマニズムの信仰を受け継いで、儒教やシャーマニズムを研究するようになったのも故郷を忘れられないことである。私の真心は孝道とはいえない。それは孝心というものである。墓が故郷へのつながりであるから守っている。
私は村の小高いところから村を見下ろしながら村の変化を悲しく思った。自分自身は大きく変わっても、故郷の変化への拒絶感に関しての自問自答でもあった。村人に比べて私は早く都会へ、そして日本へと移り住みながら国際人になろうと努力しているのではないか。自分がいかに変わったかは棚に上げて故郷の変化に失望するこの気持ちは、いったい何であろうか。中高の同級生に会うとその時代が懐かしく、その時代の延長で話すのが普通である。それはその間の変化を拒絶し、変わっていない「昔」を懐かしむからであろう。私は古く細いゆかりを持ち続けたい。
チェ・ギルソン 1940年韓国・京畿道楊州生まれ。ソウル大学校卒、筑波大学文学博士(社会人類学)。陸軍士官学校教官、広島大学教授を経て現在は東亜大学・東アジア文化研究所所長、広島大学名誉教授。