昨年、私は京畿道の砥平を訪れた。私が生まれた町であり、かねてから一度は行きたいと思っていたところである。私は、父が砥平にある砥堤小学校の校長をしていたからその校長官舎で生まれたのである。二歳で砥平から離れているので記憶は全くない。砥平は京畿道の最南端に近く、ソウルの清涼里から中央線で急行を利用すると約一時間で到着する。比較的名高い龍門の次の駅である。駅舎は新築したばかり。どうやら韓国は鉄道路線網の大改革を行っているようで、どの駅舎も新しく、線路の改修工事もあちこちでみかけた。ダイヤの組み方にも工夫がこらされ、公共交通を優先しようという政策があるようだ。
砥平の里は想像していたよりも平坦で、なだらかな丘に囲まれ水田の広がる田舎の町だった。小学校、今は初等学校になっているが立て替えられてはいるものの、敷地は昔のままだという。官舎も新しくなっているが、位置は元のままだと副校長先生。生を享けて最初に吸った空気はここのものだったのだ、と思うとなんとなく懐かしい。校庭に残る巨木を見ると、昔のことを覚えていてくれるかな、と語りかけたくなってくる。
ところが学校には戦前の記録が全く残っていないという。朝鮮(韓国)戦争で全部焼けてしまったのだ。案外知られていないが砥平には戦跡記念館がある。マッカーサーの仁川上陸のあと国連軍は北朝鮮の奥深くまで侵入、危機感を抱いた中国が義勇軍という名目で参戦、三十八度線のずっと南まで押し戻した。共産軍のそれ以上の南下をなんとか阻止したのが米軍とフランス軍が協力して戦った砥平の戦争だった。そうして現在の和平ラインまでこぎつけたのである。学校はそのとき丸焼けになったという。
そのほか砥平は歴史上たびたび登場する。例えば約百年前の甲午農民運動、日本では東学党の乱と呼ぶのが一般的だが、その農民兵に京畿道で最も多く参加した村が砥平である。東学党の主力は忠清、全羅両道出身者だったから、地理的に近かったのが影響したと思われる。砥平からは李春永、安承禹、金百先という武将が輩出している。
武将のほとんどは両班出身だったが金百先は平民出身で、その部隊は農民兵のなかで最強といわれていた。ところが両班出身の武将たちは金の活躍を快く思っていなかった。このため、ある政府軍との戦いの際、打ち合わせた時間に両班の部隊はわざと参戦せず、金の部隊だけが戦って敗れてしまった。怒った金は両班出身の武将たちをなじったところ、かえって反逆罪という罪を着せられ処刑されてしまった。以後農民兵の勢いが衰え、敗退してしまったといわれている。
ソウルや仁川で何人かに砥平を知っているか尋ねたが、ほとんどの人が知らなかった。私の生まれ故郷である。なんとか知名度を上げたいと思うこのごろである。
よしはら・いさむ 1938年京畿道生まれ。毎日新聞経済部記者、編集委員、下野新聞社取締役、作新学院大学講師を歴任。著書に「特命転勤」(文藝春秋社)「降ろされた日の丸」(新潮社)など。