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2011/10/28

<随筆>◇朝鮮時代の妓生◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授

 先日、京都造形芸術大学の春秋社で行われた「日本文化と性」のシンポジウムにパネラーとして参加して「朝鮮の女の性と美」を発表した。妓生の芸者から蝎甫(カルボ)と呼ばれる娼婦へ変わっていく歴史を概観しながら女性の美と性の本質を追究した。特にパネラーの中の法政大学の田中優子教授と女性の美と芸について討論ができた。

 彼女は日本の浮世絵からの春画、私は金弘道と申潤福の美人図や春畵を提示しながら比較的に検討を行った。

 女性の「美」とは、女性そのものより男性が感じる視覚的な美であろう。妓生は「美人」を強調され、女性の「美」「芸」が注目された。

 妓生には売春は含まれていない。伝統的に妓生は外国からの使者や貴賓を歓待するために漢詩、音楽や文学など教養を持つ存在であった。黄真伊はその代表的な例であろう。妓生は美と芸だけではなく、性的魅力がであった。多くの日本人は「妓生観光」のように妓生=娼婦と思うのはなぜであろうか。もちろん芸者が女性の性的な魅力を重んじたのは事実である。妓生制度が確立された李王朝時代では、性的統制の厳しい時代に春画においても間接的な表現が多い。

 朝鮮時代に宮中と民間の歌舞を担当した妓生は掌楽院の教坊において学習をしたが、日本植民地期になると植民地政府は公衆衛生上の理由などで朝鮮内の妓生と遊女に対し統制取り締まり、売春業を統制して監督し始めた。1913年、茶洞妓生組合に転換されて最初の券番が設立された。そして妓籍を持った券番妓生となった。ソウルでは漢城券番、大東券番、漢南券番、朝鮮券番, 平壌では箕城券番などが有名であった。

 妓生は妓生学校で楽器と歌舞を学び、歌曲、時調、琴、洋琴、長鼓、立唱、坐唱、呈才, 僧舞、剣舞、三味線、書画、算術、日本語、習字、絵を習って、専門芸能人として養成され、公演芸術家でもあり、観光広報モデルであり、伝統的服装や新しい流行スタイルを作り出すファッションリーダーでもあった。

 日本人は明治から海外へ性産業としてシンガポール、ボルネオ、朝鮮、樺太などに進出した(カラユキさん)。

 それが時代の変化とともに、特に日中戦争後の1930~40年代の戦争期には軍隊相手の遊郭などで売春業が盛んになっていく。

 特に売春やいわば軍隊との関係の従軍慰安婦などが社会的な問題となっている。妓生が蝎甫になったわけではないが、イメージとしてはそのように変わった。つまり芸を行う妓生が性を売り物とする売春業として醜業化したように思われていた。

 しかし妓生と娼婦とは異なる。ただ女性の美(芸)は男女関係を結びつける性的魅力であり、妓生と蝎甫を区別し難くなったのであろう。それは女性が翻弄された歴史でもあった。


  チェ・ギルソン 1940年韓国・京畿道楊州生まれ。ソウル大学校卒、筑波大学文学博士(社会人類学)。陸軍士官学校教官、広島大学教授を経て現在は東亜大学・東アジア文化研究所所長、広島大学名誉教授。