ソウルの景福宮にある韓国国立民俗博物館で、先日講演をした。景福宮は北岳山を背山としてその西側に仁旺山、東側に水洛山、そして南に漢江を見下ろしている。王宮の正面には数年前に火事になった南大門が見える。風水的には背山を龍脈にして左青龍、右白虎、南朱雀の全国一の「名堂(ミョンダン)」(風水的に運がよい地)であると言われている。
その王宮の真ん前の境内に植民地時代、日本は朝鮮総督府庁舎を建て、そこで約20年間朝鮮を統治した。日本の敗戦により解放されてからその建物は、米軍政庁、大韓民国の中央庁、政府庁舎、国立中央博物館などとして使われたが、戦後50周年に破壊された。その跡地は広場になっており、その横に国立民俗博物館がある。
私は景福宮の西側にある中高学校を卒業するまで6年間、同博物館で3年間、約10年間、国の中心部で過ごしたことになる。75年4月に開館する前準備のための仕事をした。つまり69年から日本に留学する直前まで文化財専門委員として勤めた。その旧職場の国立民俗博物館の大講堂の演壇に立った。20代の私が「家庭儀礼準則」の制定に参加したこと、展示資料の収集のエピソードなどを交えながら歳月の速さを語った。
当時、私は軍事政権の伝統文化保護の政策に乗っ取って韓国の巫俗を研究して注目された。より深くシャーマニズムを研究するために日本留学をし、日本研究、植民地研究と広げてきた。その過程で「親日派」と言われたこともあった。私は世間の誤解や稚拙な見解は無視して研究を続けてきた。
そのうち、韓流などにより日韓関係が激しく変わり反日思想やナショナリズムも激変した。そして私が韓国のナショナリズムの本場である国立民俗博物館の演壇に立つようになった。それは他のところでの講演とは非常に違った。私は今まで誤解されたものが理解され、濡れ衣を脱したような晴れやかな気持で一杯であり、旧職場に40年ぶりに戻って講演することが感無量であった。
特別展示の開幕式に館長などと並んでテープカットをした。演壇に上がる前に千鎮基館長が私を紹介してくれた。彼は大学2年生の時、私に英語購読Culture and Communicationを学んだと語った。私はそれを聞き、30年前の昔に遡って安東大学校に出講した時を思い出した。時間の流れの速さが私の感情を高ぶらせた。その感情は聴者たちにも伝わったようであった。演壇から降りたとたん近づいて質問する人々がいたが、中には泣きながら私の講演を聞いたという人がいた。
米国に移民してから20年ぶりに韓国に帰国したという女性が親しく話かけてくれた。彼女は20年前から私の本などを通して私を知っていたが直接会ってあまりも違う印象だと語った。実際、私は外見だけでなく、心も変わったのであろう。
チェ・ギルソン 1940年韓国・京畿道楊州生まれ。ソウル大学校卒、筑波大学文学博士(社会人類学)。陸軍士官学校教官、広島大学教授を経て現在は東亜大学・東アジア文化研究所所長、広島大学名誉教授。