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2012/03/09

<随筆>◇ 炭焼きおやじ ◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授

  •  炭焼きおやじ①
  • 炭焼きおやじ②

 下関には終戦の時、帰還の時を待ちながら大坪刑務所付近に残留した在日とは違って、戦前、韓半島から山村に移住した人々がいる。在日大韓キリスト教会のある高齢の女の方から、炭焼きに日本に来たという話を聞いて数年過ぎた。彼女はすでに亡くなっている。私は戦前朝鮮から来た人がなぜ山村に住んだのか疑問に思っていた。

 下関豊浦町在住の歌手・李陽雨氏(写真上)がギターを持って空を仰ぎながら「俺のおやじは炭焼きおやじ 眠る所も窯のそば」と歌うのを数回聞いて「すみやきの歌」の来歴を聞きたいと思っていた。李氏は下関生まれの在日韓国人二世、父親は下関に移り鬼ケ城の中腹、豊浦町など山奥で炭焼きの仕事をした。小学校時代に炭焼きを手伝ったという。いつか詳しくお話を聞かなければならないと思っていた。

 つい最近、大学院に社会人入学した博士課程後期の小児科医師の倉光氏から珍しい話を聞いた。彼は私と一緒に在日教会に出席するようになり、そこで彼の小学校の同窓生の先輩である裵氏と再会した。そして当時、裵氏は彼の隣家に住んでいたことも分ったといい、炭焼きの話が出た。そこは山村であり、数軒の韓国人が炭焼きをしたという。その炭焼きをした人に会うことができ、山口地域の朝鮮人たちの炭焼きについて知ることができた。

 新下関駅から北へ数㌔、吉冨胤昭氏(76歳、写真下)は自宅の前で雨の中、正装して自作のイチゴの箱を持って待っておられた。「百姓だ」と自己紹介から始まった。父親が戦前中国の安東で水道の工務店をしていた時、終戦になり、下関へ帰還して小野に住み、先祖代々からの畑と西山を開拓して炭焼きを始めた。山には窯が十か所あり、50-70軒が炭焼きをしていた。金本氏、金山氏、村田氏、印氏の四家族から炭焼きを教えてもらって始めた。彼らの日本語からみて韓国から来られたと思った。木の種類は椎、樫、楢、橡、クヌギなど。20センチの太さの木を切って窯に入れ込んで燃やす。木の幹に水気が少ない秋に切っておいて、冬に行うが専業の人は夏でもやった。

 山の斜面を切り開いて平坦にして窯を作る。その作り方は朝鮮の焼物用の登り窯のように丸くした形だ。石で作ると焼き過ぎになりやすい。土に塩や苦汁を混ぜる。高さ三㍍の円形の窯の山の方に煙突、反対側に火口と覗き穴を作る。木ぎれを入れて窯の上部を蓋のように作りかぶせる。窯の下は斜面にして樹液(薬効)が流れるよう小口を作る。煙突から灰色の煙が出ると全ての穴を閉めて三日間おいて出す。その時山口県職員が来て品質の検査をする。鉄を叩いて出る音のようなものが良質で、虫が付いていない木を選ぶのが重要だ。

 一窯から15㌔の俵50俵の炭ができる。それを担いで売り歩く。船舶の燃料、こたつ、いろり、焼き肉店、登山用などで販売したが、灯油などに追われやめることなった。「山」に登り窯の韓国の歴史が刻まれている。


  チェ・ギルソン 1940年韓国・京畿道楊州生まれ。ソウル大学校卒、筑波大学文学博士(社会人類学)。陸軍士官学校教官、広島大学教授を経て現在は東亜大学・東アジア文化研究所所長、広島大学名誉教授。