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2012/05/11

<随筆>◇昔の光、イマイズコ~◇ 産経新聞 黒田勝弘 ソウル支局長

 三月下旬、山の雪が解け、渓流の水も緩みはじめたところで、趣味の渓流釣りに出かけた。江原道の太白山の麓だったが、撤収間際にガケをすべり落ち、膝を痛めてしまった。

 翌日、病院に行くと膝のじん帯損傷という。以降、一カ月ほど、ギブスをはめ、杖をつくという不便な毎日をすごした。家で時間ができたので、これまで“ツンドク”になっていた本を取り出し読むことになった。まず日ごろ読む機会の少ない小説に手をつけた。

 その一冊が朴婉緒の小説集『長い長い一日』。気張りが無く、韓国人の人生風景をさりげなく描く円熟した人気の女流作家で、先ごろ亡くなったので気になっていた。身辺風景を描いた私小説風の収録作『更年期の長い長い一日』に面白い場面があった。

 主人公がシオモニ(姑、しゅうとめ)の家でのシオモニの同窓生たちの集まりにかり出され、食事の準備などをさせられる。シオモニは八十歳に近く、日本統治時代の京城女子師範出身で、その同窓生たちが時々、集まるのだ。

 元気な老女たちは、食事とおしゃべりを大いに楽しむと最後は決まって歌となる。その歌に日本語の歌があって、彼女らはその歌の最後の「ムカシノヒカリ、イマイズコ」をいつもリフレインする。主人公(作者)はこれを何回も聞かされていたが、「…イマイズコ」は「いず子」という日本の女性の名前で、別れた女性か亡くなった女性を歌ったものと思っていた。曲は哀切だし。気になっていたのである日、「あれは女性の名前でしょうね?」と聞いたところ、歌は『荒城の月』で問題の歌詞は「昔の光、今いずこ」つまり「昔日の栄光はいまどこに」という意味だと教えてくれた。

 シオモニたちは生涯、真面目一筋の小学校の先生として教育に身を捧げた人たちだ。その老女たちが「昔の光、今いずこ」と哀切調で繰り返し歌う姿に、主人公はシオモニ世代への「惻隠之心」つまり“惻隠の情”を感じるのだった…。

 読んだ小説にはこのほか金辰明著『神の死』もある。金辰明は90年代初めの反日小説『ムクゲの花が咲きました』以来、書けばみんなヒットという人気作家だ。韓国人の大衆的ナショナリズム感情を代弁する作家なので、ぼくは注目している。

 最近の大作『高句麗』もベストセラーになっているが、『神の死』は金日成の死を素材に金正日を親中派の悪役に見立て、高句麗の「広開土王碑」の碑文のナゾに韓中の領土紛争をからめた一種のミステリーものだ。反日に次ぐ反中国モノという観点が面白い。

 そのほか日本の本では辻原登の大長編『韃靼の馬』と柳美里の旅行記『ピョンヤンの夏休み』を読んだ。いずれも“コリア物”だが歴史小説の前者はいたく面白く、後者は期待したのにいたく失望でした。


  くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者を経て、現在、産経新聞ソウル支局長。