幼い頃、家庭の中ではほとんど韓国語に触れることがなかった私。母が二世なので、「母語」は日本語なのだ。
夫の母も同じく二世。ところが、この姑は時々韓国語の単語を口にするので、結婚当初はそれがとても新鮮だった。
多いのは料理に関する言葉で、祭祀(チェサ)の準備をしながら、そんな言葉を聞くのはとても楽しかった。あれは何という単語なのだろうと、あとで辞書を引いて調べたりもした。それは単語といってもちょっと変化させていたり、日本語とおかしな連結をしていたりして、なかなかわかりづらいこともある。在日特有の言葉と言ってもいいのではないか、と思うのだ。
「ピビする」は「ピビダ」のこと、つまり「混ぜる」という意味。「ピビンパ」の「ピビ」と同じだ。「チヂする」は「チヂダ」、鉄板などで焼く時に言う。ご存知「チヂミ」の「チヂ」である。「ポッカする」は「ポクタ」で、「炒める」。「ムンチする」は「ムチダ」、ほうれん草などのナムルを作るとき、味をつけて和えることを言う。
「マラする」は「マルダ」、ご飯などにスープをかけること。子どもたちが小さい頃はよく「マラして食べさせなさい」と言われたっけ。
「チャーする」は「チャダ」、塩辛いという意味なのだが、形容詞を~すると表現するので、違和感満点だった。日本語の「~する」にあたる「~ハダ」という形が、動詞にも形容詞にもあることを思うと、それも理解できるのだが。
他には、たとえば料理がまずいとき、姑はよく「味無いわ」という言い方をする。味が薄いという意味ではなく、おいしくないという意味なのだ。これも「マシオプタ」という言葉の直訳と気づくと納得ができる。おいしい、まずいは、「マシイッタ」、「マシオプタ」、つまり味が有る、無い、と表現するのだから。
さて、たくさんの料理を準備してふうっとため息をつくとき、姑はよくこう言ったものだ。
「ほんまに、チョンシンないわ!」
チョンシンとは、漢字で書くと「精神」。忙しくて何が何だか分からない、というときに「チョンシンオプタ」と言うのだが、これは直訳すると精神が無い、という意味なのだ。
今、書いていて気づくのだが、これらの言葉は、以前夫の祖母(姑の母)が元気だった頃には、祖母も姑もよく使っていたのに、最近はあまり聞くことがない。姑はこれらの言葉を、やはり一世の母親から受け継いだのだろう。だから、祖母がいたときには自然にその言葉が出てきたのだろう。祖母がいなくなって、これらの言葉も出口を失ったのだろうかと思うと、なんだか切ない。
せめて私も毎日の生活の中で、これら「在日語」ともいうべき言葉を使って、受け継いでいきたいと思うのだ。
カン・ヨンジャ 1956年大阪生まれ。在日2.5世。高校非常勤講師。著書に『私には浅田先生がいた』(三一書房、在日女性文芸協会主催第1回「賞・地に舟をこげ」受賞作)。