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2012/08/10

<随筆>◇『道 白磁の人』を観て◇ 呉 文子さん

 この映画は、23歳で朝鮮に渡り、朝鮮総督府山林課林業試験所に勤務する浅川巧と同僚李青林が、朝鮮のはげ山の緑化に奔走する中で信頼を深め、民族の壁、時代の壁を乗り超えて育んだ美しい友情と浅川巧の慈愛に満ちた生涯を描いている。

 私が浅川巧のことを知ったのは20年ほど前になるだろう。W大学の学生たちが、課外ゼミで韓国ヘスケッチ旅行したときの話を聞いてからである。学生たちはソウルに着くと、まず忘憂里の丘に眠る日本人浅川巧の墓に直行し、土饅頭の墓の周りの草むしりをすませる。

 そして日本から持参したお酒を供えて韓国式にクンヂョル(再拝)をし、それが終わると林業試験所の職員によって刻まれた「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」の追悼碑の前で、巧について研究発表するのがゼミ旅行の慣例だという。

 言葉も名前も奪われ、民族そのものが否定されようとしたこの時代に、パジ・チョゴリを着て朝鮮語で朝鮮人と接し、心から朝鮮を愛した日本人がいたことを知り、驚きと感動で心が震えた。それ以来、浅川巧と兄・伯教についての書物などを読み、いつしか彼の生まれた故郷や墓所を訪ねたいと願っていたが、願いがかなったのは98年秋のことである。その時の八ケ岳南麓に聳える美しい山並みをいまも鮮明に思い出すことができる。

 急性肺炎で余命いくばくもない巧が病床で家族に伝えた二つの願い。その一つは、朝鮮民族美術館の爆破に関わったとして西大門刑務所に囚われている李青林に面会することだった。受難の時代に朝鮮人として生きなければならなかった青林と、時代と民族を乗り超え巧と育んできた友情の狭間で葛藤する青林の苦悩が伝わり、巧の「カムサハムニダ」の言葉に心の澱が溶けていくようだった。私が一番印象に残った場面である。

 そしてもう一つは、李青林の庭に植えた松を見たいという願い。それは試行錯誤の末、朝鮮五葉松の養苗に成功した巧が、李青林の庭に植えた一本の松である。愛しく見上げる姿に、まるで自分の子供に寄せる慈愛に満ちた姿となって観るものの感動を呼び起こさずにはいられない。映画の冒頭、遠くに富士を望み美しい甲府盆地に聳える峰々を背景に、広々とした草原で幸せそうに土と戯れるシーンと、この松の木の下で息絶える安らかな表情は「それでも木を植え」続けた巧を象徴する秀逸な場面として私には映った。

 世界初の画期的な養苗法「露店埋蔵法」の開発や造林の研究で多くの業績を残したにもかかわらず、死を前にしてもその職位は判任官の技手のままだった。地位や名誉を一顧だにしなかった高潔な人、白磁のような巧の人柄そのままに。

 この映画は、国や民族を越えて共生することの意味、人間の価値とは何なのかを、改めて問い直す機会を私に与えてくれた。「それでも木を植える」という巧の魂の叫びと共に。


  オ・ムンジャ 在日2世。同人誌「鳳仙花」創刊(1991年~2005年まで代表)。現在在日女性文学誌「地に舟をこげ」編集委員。著書に「パンソリに思い秘めるとき」(学生社)など。