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2012/09/21

<随筆>◇『百年~風の仲間たち』を観て◇ 康 玲子さん

 土曜日の午後、夫と二人で新宿梁山泊の音楽劇『百年~風の仲間たち』を観に出かけた。

 趙博作(出演も)、金守珍演出のこの作品には、猪飼野のある居酒屋を舞台に、さまざまな在日朝鮮人が登場する。誰が主人公というのではない。描かれるのは、重い過去を持ち、それを笑い飛ばしながら生きている在日の群像だ。そんな一人一人の人生を、趙博の歌、併合百年を歌った『百年節』がつないでいく。

 植民地時代、日本に来て一生懸命働いたけれど「チョーセンジン」とののしられた。解放を喜んだのもつかの間、祖国が南北に引き裂かれてしまった。済州島四三事件での虐殺を目の当たりにしてしまった心の傷。戦後も差別を受け続けた悔しさ。それでも祭祀(法事)だけは欠かさず続けてきた。民族教育も大切に守ってきた。そしてある者は共和国での社会主義国家建設に夢を託して帰国、だがその夢は破れ、家族は生き別れになってしまった。またある者は祖国で学ぼうと韓国に留学、しかし北のスパイ容疑で捕らわれ拷問を受けた。そんな在日の閉塞状況の中で、悩んだ末に家族で帰化申請をした民族学校の教師・・・・あんなに民族教育に情熱を捧げてきたのに・・・・。

 劇中、一人の女性が、暗闇の中で突然苦しみはじめる。祖父や父の苦しい記憶がよみがえり、過呼吸になったのだ。自分が直接体験したわけではないのに、民族の歴史が自分の中に取り込まれ、今も苦しい思いをするというこの場面は、象徴的だ。時代は変わったけれど、やはり民族ゆえに、国籍ゆえに、生き難さを感じないではいられない私達の人生と重なり合いながら、過去は現在の中に生き続けているのだ。

 たくさんの悲しいことや、悔しいこと、歯ぎしりしたくなるようなそんな思いをふり払うかのように、舞台の皆は言う。「民族とか国籍とか、そんなもん、どうでもええ。」「私ら、在日関西人や!」。でももちろん、劇を観る私達には伝わってくる。それがどれほどの思いをしてようやく辿り着いた言葉なのか。本当にどうでもいいと思っている人なら、わざわざ口に出して言ったりはしない。それを大声で叫ばないといけない心の屈折が、はからずも浮き彫りにされる。

 そして同時に、こんなふうにもうなずき合うのだ。「歴史のこと、何があったのかということ、忘れてしまったらあかん。」―本当にその通りだ。この劇は若い人にも是非観てほしいと思う。

 趙博さんは私と同年。彼の歌は、在日百年の歴史を、その間に沈殿し、積もった「恨」を、ごく短い言葉で射抜いてしまうのが本当にすごい。聴きながら、ああ確かにそうだとうなずいてしまう。

 明るいフィナーレなのに、泣いてしまうのはなぜだろう。一世や二世なら決して泣いたりしない。でもそんな私達の世代だからなすべき仕事、歴史の引き継ぎを、この劇は見事に果たしていた。


  カン・ヨンジャ 1956年大阪生まれ。在日2.5世。高校非常勤講師。著書に『私には浅田先生がいた』(三一書房、在日女性文芸協会主催第1回「賞・地に舟をこげ」受賞作)。