父が他界して5カ月近くになろうとしている。日々、父の仕事場で膨大な資料、書籍、道具、そんなあとかたづけに追われ、忙殺されそうな毎日を過ごしている。そんな日々の中で思い出に浸ることなど決して無いと思っていた私だったが、時にセピア色に褪せた父の在りし日の頃の写真に目をとられ、不思議と主のいない淋しさを感じない穏やかな時を過ごしている。
父、陳昌鉉を語るにふさわしい表現とは 。頭のてっぺんから足の指先までバイオリン一色の人生、深く言えばDNAがバイオリンで出来ていた人。この一言に尽きると思う。喜怒哀楽を誰はばかることなく生き、艱難辛苦を乗り越えて、昔の苦労話をするときは、爆笑秘話となり、若い季節は辛い時代、一世の青春は色で例えるならば無色であると語っていた父。それだけ辛い思いが多かったという事だと思う。
掴み所のない真空地帯の様な空洞の時代に、何を信じてバイオリン製作の道を迷わず選択したのか。青雲の志、大志を抱き、そんな表現をすることが多かったと記憶しているが私は違うと思う。人は成るべくして、その職につき天職にするのだと。陳昌鉉はそうであったと思う。
父の日常生活のすべては製作一色とばかり思われがちだが、娘の私から見る裸の父は、お人好しの人情家でもあり、また、分をわきまえ、いつも自分を知り、それとは反対に発言能力を身につけている知的な人。そんな父の個性が一番、発揮されるのが日常よく話す日韓問題。時に、辛口な物言いで交わされる批判。戦後の混乱期を見てきただけに父の意見は的をつく風刺があった。私達家族と交わすディスカッションを、父は一番、楽しんでいたように思う。話の最後を締め括るのは、いつも、「生みの親は母国・韓国、育ての親は日本、両国の良いところを互いに学ぶ事が、一番大切だ」。まさに正論である。
日本の文化・生活に順応しながら同化することなく、曖昧さもない父の物事への見方、考え方の底に常に流れる、揺るがない固さで父の中に存在していた韓国的な魂、鋭い感受性と、計算や打算の全くない天衣無縫な生き方。この両者を守ったからこそ、人を魅了する力を持ち、会う人に感動を与えていたのだと思う。
この父の理性とは真逆に製作に打ち込む一心不乱な姿は、実にダイナミックそのものだった。バイオリン製作は全神経を板一枚、木目に集中し探究する終着のない作業。製作中に声をかけることは言語道断だった。そこは親子であっても踏み入る事のできない聖域なのである。それでも子供の頃は、もう少し共に過ごす親子の時が欲しいと正直、幾度となく思った。
小学生の頃、秋色に染まった葉を何枚も拾い、父のアトリエに届けた事があった。子供心に親の手伝いをしたいという思いからだった。「こんな色はどう?ニスに塗れる?お父さんこの色好き?」。あの時の父の笑顔と私の手を包んでくれた両手の温もりは、私にとって父と過ごした一番の時であったと思う。子供に対して無関心だったのではなく、一生懸命だったから、まわりを見る余裕が持てなかったのだと、そう理解できる様になったのは私達も父と同じ道を志す職についたからこそだ。
父が、この仕事場で製作し過ごした半世紀の歳月、仕事をしてきたこの空間を整え、守り、受け継ぐことは父が生きたその人生を愛することになると私は思う。そして、それが自分の生き方を守った父に対しての畏敬である。
ストラディバリウスを目指していた父、陳昌鉉。その高みに次世代の私達の歩みが始まろうとしている。やはり父のDNAなのか。かつて父の両の手に包まれた私の手は今、兄弟と共に父の仕事机にある。高みへの一歩の続きのために。
チン・チャンスク 1964年東京生まれ。杉野女子短期大学卒。幼少期から楽器について学ぶ。父のアトリエJIN工房にアシスタント勤務。バイオリン製作者。