「夢であってほしい」私の願いは無残にも砕け散った。ソウル駐在のSさんの突然の訃報を聞いて、信じられないままにソウル行きの飛行機に飛び乗った。
冷たい風にコートの襟を立てながら、ソウル市内の病院に直行したが、地下の霊安室に彼の名前を見つけて、冷酷な現実を知らされた。狭い通路一杯に林立する白菊の供花。その奥の部屋に彼は眠っていた。祭壇の中央に飾られた、ややふっくらした優しげな遺影はまさしく、彼。思わず駆け寄って声をかけた。
「Sさん!なぜここにいるの?」
「アンニョンハセヨ!」いつも元気に得意の韓国語で応える彼が、今日は優しく微笑んでいるのみ。込み上げる涙で遺影が歪んで見えた。
控え室は弔問客で溢れていた。日本人にも韓国人にも、誰からも愛された彼の突然の悲報に、みんな言葉もなく放心状態。たまらず一気に煽った焼酎が空腹の胃袋に沁みわたった。彼とはよく焼酎を飲んで語り合ったものだが、まさか久しぶりの焼酎が彼の通夜になろうとは。
Sさんは最も信頼する友人であり、企業戦争の戦友だった。韓半島(朝鮮半島)の動向に深い関心を持っていた彼は韓国語を完璧にマスターした上に、中国東北部の大学で北朝鮮訛りの朝鮮語もモノにした。同じ民族でも南と北では言葉が微妙に違うのだ。
ソウル駐在員となってからは得意の語学を駆使して、まるで水を得た魚のような活躍ぶり。一足先にソウル駐在となった私とのつき合いがまた始まった。
韓国での仕事に酒はつきもの。ビールに洋酒を混ぜて一気飲みの爆弾酒は駐在員泣かせで、私など直ぐにぶっ倒れたが、彼は爆弾酒のお代わりをするほどタフだった。ソウル日本人会のソフトボール大会では、自称エースの私がよく打ち込まれてなかなか勝てなかったが、Sさんにマウンドを譲ったら途端に勝ちだして、何と初優勝。捕手に格下げ(?)の私も一緒に優勝の美酒に酔いしれたのはつい昨日のことのような気がする。
Sさんには夢があった。語学研修で身に着けた朝鮮語を使って、経済面から日朝関係の改善に寄与できる日が来るのを待っていた。私も彼も過去に何回か現地に行ったこともあり、二人でよく未来図を語り合ったものだ。まだ若い彼には十分に可能性があったのに。
「アンニョンハシェヨ」幼い声にふと我に返ると、まだ事情がよく呑み込めない一人息子のH君がそばに立っていた。思わず小さな手を握りしめた。激しい競争社会を一気に駆け抜けたSさん。これから人生のピークを迎えようとしていた時に さぞ無念だったろう。
深夜遅く到着した宿所の前から見上げる夜空に、星が一つ輝いていた。
「Sさん、これからはのんびり行こうよ」
小さく呼びかけてみた。
おおにし・けんいち 福井県生まれ。83―87年日商岩井釜山出張所長、94年韓国日商岩井代表理事、2000年7月新・韓国日商岩井理事。09年10月より韓国TASETO専務理事。2011年9月よりマッカン・ジャパン代表。