「今、東京だけど、元気ですか?」
やや早口の懐かしい声は韓国の金さんに違いない。でも彼は子供の教育のために家族でカナダに住んでいるはずだが。
「金さん?久しぶりだね。会いたいな」
「私も話がたくさんあります」
金さんは韓国の大学から東京の某大学院を卒業後、私が勤めていた商社に入社し、数年間、机を並べていた。同じ部署には台湾人、ベトナム人などもいて国際色豊かだったが、長身でイケメンの金さんはひときわ輝いていた。当時、赤坂に「パボネ」(バカの家)という韓国スナックがあったが、我々は毎日のように入り浸っていた。韓国人のママさんがすごい美人だったからだ。もっとも、モテるのは金さんがダントツで、私は完全な割り勘負け。この店は今は韓国レストランに変わっているらしい。
金さんの口癖は「ヘボプシダ」(やってみましょう)。何事にも積極的な韓国人のDNAがしっかり刻み込まれていたが、慎重な日本人の血がたっぷり流れている私とはよく衝突したものだ。そんな時は「パボネ」で仲直り。金さんは切り替えも早かった。ソウル支店に転勤になった金さんを追うように私も韓国駐在員となり、彼とのバトル?が再開した。彼は会議のたびに強調した。
「これからはITの時代です。ITに金を惜しんでは、将来必ず苦労します」
当時はIT革命全盛だったが、某政治家が「イット革命」と読んだように、言葉が先行しているきらいがあり、当社もオッカナビックリで対応していた。
「自分でやってみます」と、紅潮した顔で金さんが独立宣言したのは他にも理由があったが、直接的な動機は、慎重な日本企業に限界を感じたのだと思う。日系企業では能力のある人ほど壁にぶつかっていた。彼の決意が固いことを知り、
「じゃ、金さんと競争しよう。私は組織の中で生きるしかないが、負けないよ」
「やりましょう。何年か後を見てください!」
それからの金さんはIT関係の商社を立ち上げて、大変な苦労をしながら軌道に乗せた。私は彼の活躍ぶりを励みにして来た。ところが会社にめどがつくと経営は信頼する部下に任せて家族と一緒にサッサとカナダに移ってしまった。
「同じことをやっていてはマンネリになります。人生、充電も必要です」
あれから何年経っただろう。子供はカナダの大学を卒業、本人も豊かな自然の中でジックリと充電し、満を持して再活動に踏み出したようだ。
「すっかり見方が変わりました。人生はこれからですよ」
頼もしい言葉に韓国人の逞しさを感じる。
「赤坂のパボネへ行ってみようか?」
「ウワー、懐かしいな。ママさんはまだいるかな?」
今夜は久しぶりに深酒しそうだ。
おおにし・けんいち 福井県生まれ。83―87年日商岩井釜山出張所長、94年韓国日商岩井代表理事、2000年7月新・韓国日商岩井理事。09年10月より韓国TASETO専務理事。2011年9月よりマッカン・ジャパン代表。