「アボ二ム(父の意、故李進熙氏)は若い頃に単身日本へ留学し、苦学を重ねながらも、常に故国を思い、身寄りもない中、自分の血を売って食いつなぎ、命がけで勉学に励みました。アボニムの業績については先ほど諸先生からもお話がありましたが、高句麗広開土王陵碑に関する研究を通して、韓国と日本の古代の関係を問い直した考古学者であります。また「朝鮮通信使」の研究における先駆者であり、『季刊 三千里』と『季刊 青丘』の編集長として活躍した言論人でもありました」
「プライベートな面では、アボ二ムは常に私たちに祖国のこと、故郷の釜山こと、両親や兄弟のこと、先祖のことなどを話してくれました。そして何よりも日本へ留学に送り出してくれたハルモニ(祖母)への想いは格別なものでした。勉学への思いを理解し、日本への留学を後押ししてくれたハルモニの英断こそが、アボ二ムをして、その後、必死で研究に励み、ハルモニの期待にこたえようという強い想いに繋がったのではないかと思っております。そのハルモニの眠る故郷で埋葬式、ついで記念碑が建立されましたことは息子としても感無量でございます」
今月中旬、夫の故郷で執り行われた埋葬式での息子の謝辞は、在日一世である父の確固たる人生観に対する畏敬の念と共に、信じる道を真っ直ぐに生き抜き「人生に悔いなし」と言い残して逝った父への讃辞ともなって、参列した人々に感動を呼び起こしたようだ。夫はキムチを欠かさず、みそ汁は日本の味噌が美味しいと言った人。生を享けたのは韓国であるが、学恩を授かったのは日本だと言って、日本と韓国の関係史に研究の多くの時間と労力を割いた。
息子の謝辞を聞きながら、彼が留学を切り出したあの日のことが脳裏をよぎった。何か思いつめた感じが伝わり、ゆとりのない家計ではあったが、何とか希望をかなえてあげたいと留学を後押しした。まもなく彼は、「必ずモトをとって帰ってくるからね」と告げて旅立った。
必死で働き学費を送り続けたが、しかし学費だけである。彼は学生の身分でありながら、日本からの留学生向けの授業を担当し、駐在員の子供に日本語を教え、その母親には英語を教えるアルバイトをして生活費をまかなった。
当時の彼の友人たちから「彼を探す時は、図書館にいけば必ずいる」といわれるほど必死で頑張り、短期間で卒業証書を手にして、念願の商社マンとなった。
時代は違っても息子を思う母親の気持ちは普遍的なもの。また母親の後押しを理解し苦学しながらも学業に専念した息子たちも、同じ思いだったのではなかったかと、息子の謝辞を聞きながら、しみじみと夫と共に歩んだ半世紀余りを振り返り、遠い日を懐かしく思い出していた。
五木寛之さん風に言うと「アボジの力」なのか「オモニの力」なのか?
オ・ムンジャ 在日2世。同人誌「鳳仙花」創刊(1991年~2005年まで代表)。現在在日女性文学誌「地に舟をこげ」編集委員。著書に「パンソリに思い秘めるとき」(学生社)など。