今年の8月も、新聞やテレビは、戦争メモリアル月間さながらに、戦争のむごさや、被爆者たちの理不尽な人生をクローズアップした。戦争の惨禍に想いを馳せ、記憶を風化させないための夏の「風物詩」となって久しい。この季節になると、私はクミコさんの「INORI」を聴きたくなる。「INORI」は、被爆後に12歳で死去し、広島の「原爆の子像」のモデルとなった佐々木禎子さんの悲しみを曲にしたもの。佐々木さんは「もっと生きたい」と願って薬や菓子の包み紙で折り鶴を折り続けたそうだ。その姿を甥でシンガーソングライターの佐々木裕滋さんが曲にしクミコさんに託した。
♪泣いて泣いて泣き疲れて♪ ♪祈り祈り祈り続けて♪のリフレインでは、佐々木禎子さんの悲しみ、そして命の大切さや平和を祈る気持が切実に伝わってくる。
私が初めてクミコさんの歌を聴いたのは「銀巴里」のステージだった。1980年代の後半、私は毎月のように銀座七丁目にあったシャンソニエ「銀巴里」に通っていた。緑の看板(chambrede chanson銀巴里」がかかっているドアーを開け、薄暗い階段を右回りに降りると、奥にレジがあり正面には小さなステージがあった。120人程入れば満席になる「銀巴里」ホール。1951年にオープンし、シャンソンの殿堂として親しまれたが90年に惜しまれながら閉店した。美輪明宏の「メケメケ」や、昨年のNHK紅白歌合戦で注目を浴びた「ヨイトマケの唄」が大ヒットし、美輪明宏が「銀巴里」の存在を世に知らしめたとも言われている。
当時クミコさんはとてもユニークなキャラクターとして目立っていた。華奢な身体にどちらかといえば角張った顔、ちょっぴり垂れ気味の大きな目、おしゃべりは関西芸人に負けないほどの早口。大御所たちが歌い上げる中で、語るように、ときにはささやくように、客席に向けて歌詞を届けようと全身で表現する、ある意味テクニシャンでもあった。だからすぐに名前を覚えた(当時のプログラムには高橋久美子)。まだ20代の終わりか30代のはじめだったのではなかろうか
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「INORI」が大ヒットした一昨年のこと、ある番組でクミコさんが語っていた言葉がとても印象に強く残っている。かつては敵対し憎しみ合った米国との関係でも、被害、加害という図式を超えて未来志向の関係を構築できるのだと。国境を越えて手を結び、怒りと憎悪でなく、愛の連鎖へとつなげたいというメッセージを「INORI」に込めてうたっているのだと。
独島だ、竹島だ、と島の領有権を巡って韓日関係が険悪な状況になって久しい。未来志向だ、新しい韓日関係だと言いながら、事が起きると元のスタートラインに戻ってしまう韓国と日本。いつまでも過去にこだわるのではなく、未来志向で愛の連鎖へとつなげていけないものだろうか、と「INORI」を聴きながら今年の光復節を過ごした。
オ・ムンジャ 在日2世。同人誌「鳳仙花」創刊(1991年~2005年まで代表)。現在在日女性文学誌「地に舟をこげ」編集委員。著書に「パンソリに思い秘めるとき」(学生社)など。