ここから本文です

2013/10/25

<随筆>◇天の星摘み◇ 康 玲子さん

 かなり前の話になってしまうが、NHKラジオでハングル講座を聴いて勉強していたときのことを書きたい。

 そのときは、キム・トンハン先生という、低い声が素敵な先生の指導だった。ことわざを取り上げながら日常会話を学ぶ、という講座で、毎回楽しくいろいろなことわざが取り上げられていた。

 「虎も自分のうわさをすれば現れる」日本語で言うなら「うわさをすれば影がさす」。お互いによく似たことわざがあるのが面白い。それでも虎が出てくる、というのが独特だなあ。

 「往く言葉が美しくてこそ来る言葉が美しい」。この言葉自体が美しいなあ、と感じ入る。

 「昼間の話は鳥が聞き、夜の話はネズミが聞く」。これは「壁に耳あり障子に目あり」に似ている。でもやはり動物が登場するところに味がある。

 というふうに続く中で、ある日、「天の星摘み(ハヌレ ピョル タギ)」という言葉が出てきた。「達成できる見込みがないことや可能性のないことに、どんなに努力を傾注しても、実現性がなく、無駄にすぎないことを言う」と、説明がある。初めて知る言葉だったが、理解することは難しくない。なるほど、天の星を手に摘み取るなんて、到底できることではないものね。

 ところがそのとき、私はふとあることを思い出した。昔、私が大学に合格したとき、当時はまだ元気だった祖母がとても喜んでくれて、こんなことを言ったのだ。「教会の友だちに話したらねえ、まあ、大学に受かるなんて、空の星を取るよりも難しいことやのに、って言うてくれたんよ」

 祖母が電話口で、うれしそうな声で話してくれた、そんな言葉を、なぜこんなにもはっきりと覚えているのだろう。そう考えると「空の星を取る」という表現が、ちょっと文学的で、祖母が普段話す言葉とは違う感じがしたからだろう、と思い至った。日本語が決して上手ではなかった祖母が、そんな表現をしたことが珍しくて、印象に残ったのだろう、と。でも、これはことわざとして紹介されるほどの、慣用的な表現だったのだ。祖母たちにとってはごく当たり前の言葉で、ただそれを日本語にして私に話してくれた、ということだったのだろう。

 30年も前の祖母の言葉、すでに天国に行ってしまって、もう会うことも話すこともできない祖母の言葉、その言葉の謎が、ハングル講座で学んでいるうちに解けるとは―それは思いがけない経験だった。

 本当だったら、もっと早く、熱心に言葉を勉強して、祖母とも同じ言葉で話したかった。直接祖母からも教えてもらいたかった。それは叶わない願いだけれど、こうして今学ぶことで、少しでも天国の祖母とも会話ができるような気もする。この先にもどんな発見があるだろうと、楽しみにしながら。


  カン・ヨンジャ 1956年大阪生まれ。在日2.5世。高校非常勤講師。著書に『私には浅田先生がいた』(三一書房、在日女性文芸協会主催第1回「賞・地に舟をこげ」受賞作)。