全羅北道・益山の弥勒寺の石塔復元が話題になっている。この石塔は百済時代末期(7世紀)の大寺院、弥勒寺の廃墟にあったもので、日本統治時代の1915年に日本人の手でいった復元されたのを今回、新しく復元し直すことになったのだ。10年ほど前から解体作業を進め、今回、その復元作業に向けて起工式が行われた。2016年夏に完成予定という。
実は、この石塔は筆者が韓国で一番のお気に入り史跡なのだ。6層までしか残っていないが、本来は9層で高さ20㍍にもなる韓国最大の石塔である。1970年代の留学時代に初めて出かけ時、何もない野っぱらにぽつんと、崩れかかって残っているでっかい姿が異様で、百済文化の“滅びの美”を感じさせる風景に感動した覚えがある。
塔は半分ほどが崩れたまま放置されていたのを、日本統治時代にコンクリートで支えたため辛うじて保存された。ところがそのコンクリート部分が醜くいうえに、風化が進んでいたため復元することになった。それにしても100年前のことになるが、あの時、保存措置がとられていなかったらどうなっていただろうと気になる。当時、日本人たちは周辺に散在していた石塔の残骸を収拾して、やっと6層まで復元しコンクリートで支えたという。
ついでにいえば、韓国で文化財や史跡というと日本支配による略奪や破壊ばかりが話題にされるが、実際は保存に力を入れたというのが真実に近いと思う。
たとえば戦前、韓国で考古学発掘にあたり、終戦後(解放後)も請われて韓国に残り、韓国国立中央博物館立ち上げに尽力された京都大学名誉教授、有光教一先生から聞いた話を思い出す。戦前の韓国での考古学への関心をたずねたところ「地面にはいつくばって発掘調査をするような学問研究に韓国人は関心なかったですよ」と言っておられた。
ところで時を同じくして釜山で新装となった「影島大橋」の開通式がこのほど行われた。釜山港の沖合の影島と市内をつなぐ橋だが、日本統治時代の1934年、船の航行の際に跳ね橋になる近代的な開閉橋として完成。釜山名所として市民に親しまれた。
老朽化などで撤去論が出たのに対し保存論が起き、これまで中断されていた跳ね橋を再開して観光名所にしようと“新装開通”になったのだ。この橋は日本統治時代の“近代化史跡”であると同時に、朝鮮戦争当時は避難民たちの“再会の場”として知られた。だから懐メロの歌詞にもなっている。
今回の保存・新装開通には、釜山が故郷の財閥ロッテグループが財政支援したことが話題になっている。「影島大橋」の復活は文化財保護でもある。韓国第2の都市、釜山は近年よく地盤沈下がいわれる。そんななかで“釜山街起し”へのロッテの思い切った協力は美談である。
くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者、産経新聞ソウル支局長を経て、現在、ソウル駐在特別記者兼論説委員。