韓国旅行のガイド雑誌を読んでいたら、素朴な麦ご飯がおいしいという店が紹介されていた。麦ご飯ってなつかしい気がするなぁ、おかずもそれぞれにヘルシーな感じでいいなぁ 、はて、でもどうして麦ご飯がなつかしいんだろう。
たまたま実家の母から荷物が送られてきて、蜂蜜やナッツと一緒に麦ご飯用の麦が入っていた。聞けば、近所に自然食品の店ができたから、いろいろ買い込んできたのだという。米に一割程度の麦を混ぜ、普通に炊くだけ、とのことなので、さっそく炊いてみる。白米の中に茶色いすじのある麦が混じった麦ご飯。匂いがいつもと違うが、これが麦の匂いなのだろう。食物繊維等が豊富とはうれしいことだ。かむほどに味が出て、ほのぼのとした気分。そして思い出した。麦ご飯がなつかしいわけ。
私が子どもの頃、父方の祖母は電車で三駅ぐらい先の叔母の家に住んでいて、私はよくそこへ遊びに行った。行くと必ずご飯を出される。済州島出身の祖母の作る料理は、太刀魚の煮付けや、唐辛子等で和えた干し明太、ナムル、わかめのスープ、それにニンニクの醤油漬け、エゴマの葉の醤油漬け、キムチなどと決まっていて、そのときの私にはあまりうれしいものではなかった。(今となってはなつかしい、もう一度食べたい。あの味がわからなかったなんて。)それでも、祖母はたくさん食べなさいと言って、あれこれおかずを並べ、ごはんもおかわりしなさいと、それはうるさいほどだった。
その、祖母が出してくれるごはんが麦ご飯だった。叔母が笑いながら、「ごめんね、おばあちゃんが炊くご飯はいつも麦ご飯なんよ。」と言うと、祖母は、「麦は体にええねん。池田大臣って、偉い人やで、『貧乏人は麦を食え』って言ったんやで。」子どもの私には何のことかわからなかったけど、祖母はにこにことうれしそうに、そう話したのだ。
一九五〇年の、池田勇人蔵相(当時)の発言は、この文言通りではなかったらしいが、やはりマスコミの批判の対象になったようだ。皆が白いご飯を食べられるような、そんな社会づくりが求められているはずなのに、為政者がこんなことを言ってしまっては 、とは私も思う。
だが、祖母はむしろ感謝するかのように、この言葉について話していた。そんな言葉も素直に受け取り、貧乏人でも麦ご飯が食べられるからよかった、麦は体にもよいし、値段も安いし、ありがたいと、心からそう思っているようだった。天国にいる祖母に、「おばあちゃん、そんな言葉をありがたがってちゃだめじゃない」―そう言いたい気持ちもあるけれど、やっぱり言えないとも思う。
故郷を離れ日本に来たが、早くに夫を亡くし、一人で子どもを育てた祖母。貧しさの中、黙々と働きつづけた祖母を支えたものが何だったのか。その素直、恭順、純朴を、私には笑うことができないのだ。
カン・ヨンジャ 1956年大阪生まれ。在日2.5世。高校非常勤講師。著書に『私には浅田先生がいた』(三一書房、在日女性文芸協会主催第1回「賞・地に舟をこげ」受賞作)。