昔、日本で“当たり屋”というのがあった。手元の『広辞苑』を引くと「走行中に自動車に自分の体などをわざとぶつけて治療費などをおどし取る人」と出ている。当初は親が子供にやらせていたなどという、どこかうら寂しい話もあったように記憶する。
“当たり屋”を思い出したのは最近、ソウルで似たような事件があったからだ。“当たり屋”より“転び屋”といった方が正確だが、市内バスの中で走行中に客の老人が転げ、運転手に対し「乱暴運転だ!訴えてやる!」と脅かしてカネをせしめていたというのだ。
バスという舞台が面白い。この“転び屋”は常習でしかも元バスの運転手という。つまりソウルのバスでは、急ブレーキや急アクセルなどで乗客が転び、そのことで運転手とトラブルになることがよくあるということだ。
客に騒がれ問題が大きくなるとまずいので、運転手の方もついポケットマネーで処理する。そこに目をつけた元バス運転手ならではの悪知恵だった。さらに面白かったのは、この事件を伝える新聞に「社会的弱者のバス運転手」という表現があったことだ。バスの運転手がなぜ社会的弱者なの?
低賃金・重労働のせいかと思うが必ずしもそうではない。それよりも、いつも乗客に文句を言われ、イジメられ虐げられているということで「社会的弱者」になってしまったようだ。
最大のイジメは乗客による運転妨害や暴行。酔っ払いをはじめ何かとバスに不満の客が運転手に議論を吹っかけ殴ったりするケースが多く、社会的問題になっていた。
そこで最近は「運転手保護」のため、バス運転席をガラス張りでドア付きの頑丈なボックスにし、乗客が手を出せないように完全に隔離してしまった。これで客による運転妨害や運転手暴行は防げるようになったのだが、一方で肝心の「乗客保護」は相変わらずないがしろのままだ。
だから“転び屋”が登場するのだが、バスの急ブレーキや急アクセルなど乗客無視は改まっていない。筆者のような高齢者や子供連れは危なくて仕方ない。あの急ブレーキや急アクセルでは間違いなく転ぶ。筆者は朝晩、必死につり革や手すりにつかまっているが、これはこれで疲れることこの上ない。
ソウルのバスの乱暴運転は「バス専用車線」にも原因がある。市内の道路にはブルーのラインでバスだけが走行できる専用車線が設定されているため、バスは我が物顔のすごいスピードで走る。走行距離を増やして運賃収入を上げようという営業策のようだが、客の安全への配慮などないに等しい。
筆者が年をとったせいだろうか?こうしたソウルの“相変わらず”が気になる。騒音もそうだ。昔は活気と感じ心地よかったのが今や苦痛だ。ソウルは何であんなに騒々しいの?依然、若者の街だから?実際は高齢化が進んでいるというのに。
くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者、産経新聞ソウル支局長を経て、現在、ソウル駐在特別記者兼論説委員。