久しぶりに講演で沖縄に行ってきた。約十年ぶりだったが、実は沖縄とは縁があって一九七〇年代にはよく出かけた。最初の訪問は一九七〇年秋で、当時はまだ米国の施政権下にあったため外国扱いだった。旅券を持ち通貨はドルで「那覇特派員」だった。
沖縄が日本に復帰したのが一九七二年五月だが、同じ年の秋に日本は中国と国交正常化している。日中国交正常化で日本は台湾との国交断絶を余儀なくされたのだが、その余波が沖縄に及んだ。
台湾のすぐ隣に与那国島がある。よく晴れた日には台湾が見える。与那国島の主産業は他の離島と同じくサトウキビ栽培だった。この〝産業〟は季節労働で、サトウキビの伐採と製糖工場を動かす時だけ忙しい。そのため過疎で人手が足りない与那国島は、サトウキビの収穫期の冬場には台湾から季節労働者を招いていた。
ところが台湾との国交断絶で突然、人手がこなくなった。島の経済にとっては一大事である。急きょ韓国から招いたが、過酷で慣れない仕事で事故など不祥事があり、韓国ルートも中止となった。そんな時、以前、取材で知り合った与那国農協の幹部から何とかならないかと、支援要請がきた。そこで意気に感じて本土から毎年のように〝援農隊〟を送り込んだのだ。七〇年代の半ばのことで、こんなことがあって沖縄とは結構、ディープな付き合いをした。
現在の沖縄はサトウキビ産業は完全に斜陽で、米軍基地関連の収入を除けば今や観光が最大の経済基盤になっている。那覇など完全な観光都市で内外の観光客であふれている。七〇年代のイメージからはほど遠い人口五〇万の大都市だ(沖縄全体は一四〇万人)。
今回、訪れて感じたのは〝復古主義〟である。明治以前の琉球王国時代の〝琉球文化〟をウリにしているのだ。復元された首里城が観光ポイントになり、歌舞音曲から飲食、工芸、ファッション、その他 近代日本の行政名称である「沖縄」より古名である「琉球」が強調されている。中国と日本の間で双方の影響を受けながら独特の文化を維持、発展させてきたその〝異国情緒〟が、自然の美しさとともに最大のチャームポイントになっているのだ。
ソウルから出かけたので韓国の済州島のことが思い出された。沖縄と似たイメージがあるからだ。済州島だって昔は「耽羅国」といったというではないか。さらに高麗時代には元の支配を受けたためモンゴル文化の影響もある。地名には「モスル浦(ポ)」などというモンゴル語も残っている。
「耽羅文化」と「モンゴル文化」は済州島の観光資源にもっと使えるのではないか。沖縄のテレビやラジオでは難解きわまりない方言による番組を常時やっている。済州島でもこんな発想があっていいのではないか。
くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者、産経新聞ソウル支局長を経て、現在、ソウル駐在特別記者兼論説委員。