植民地時代、大邱の治水事業に貢献した水崎林太郎のことを知らせてくださったのは「清里銀河塾」でお会いした松本在住の作家原健一郎氏である。奇しくも浅川巧の精神に学ぶ「清里銀河塾」で水崎林太郎の功績を知ることになろうとは 。
後日、氏が送ってくださった雑誌「群峰」(35号2015)で水崎林太郎をしのぶ追悼式が韓国の大邱で開かれ、地元の人たちが守ってきた氏の墓の前で、参加者は日韓の絆の大切さをかみしめたとテレビでも報道されたことなどを詳しく知った。
水崎林太郎は岐阜町長を歴任した後、1915年に衆議院議員に立候補したが落選し韓国に渡って花弁栽培を始める。
つづきは本紙へ