高齢者でありながら、私はコンピューターを好み、上手に使えると自慢することがある。教育学部を卒業し、韓国で高校の教員として初めて赴任した場所は、ソウルから遠く離れ、交通が不便な場所で、生活はさらに不便な点が多かった。
毎晩、保護者の家に教員が招待された。還暦や結婚などの祝宴が多く、教師がお祝いに呼ばれ、夜遅く帰ってくる日々が続くのだった。私は酒が飲めず、宿直室で過ごす日も多く、深夜には巡回もしなければならない日が多かった。
国語科出身として国語を担当するのは当然だが、英語担当の教員が突然辞めたことにより、私が頼まれ、英語を担当することになった。そんな時、さらに難しいことが起きた。英語担当教員が担当していたタイプライター科目もしなければならないと言う。初めてさわる英文タイプライターは印象的だった。近くの米軍部隊でもらい受けたもので、商業学校の必修科目だった。深夜までキーボードを見なくても打てるように暗記する必要がある。英語教師としてのイメージを持つようになった。
隣の駐屯部隊の将校が学校を訪問してくる度に英語の担当者として呼ばれて通訳をするようになり、将校から英会話を教わった。大学院の勉強もしていたので、学校の仕事には不十分な教員だったかも知れない。当時は本当に厳しい極限に立っていた。
そんなある日、ここから脱出できるような知らせが入った。陸軍士官学校で教授要員を採用する募集試験があるという。私は受験の準備をすることにした。士官学校の試験を控えて学業成績が負担になったりするが、それよりも、私の健康が大きな問題だった。結核を患っていたことが、合格、不合格に影響するだけでなく、実際に軍務ができるだろうかという不安に襲われた。
運よく合格はしたが、
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