55年前、19歳で本国を初訪問し、その時の衝撃(感動)が、その後の僕の人生を決めた。それから毎年祖国訪問を続け、40代の10年間、ソウル暮らしをした。今その体験を「ある在日の家族史」の一幕(本国居住編)に綴っている。在日一世の父は日本に併合された3年後(1913年)、全羅南道宝城郡で生まれた。日帝の植民地支配で生活破壊された極貧農家だった。口減らしの出稼ぎで昭和の初期に渡日した。その後の過酷な在日生活は多くの人が知るところだ。
それはそれとして、敗戦後の日本の経済復興は著しかった。日本は世界第2位の経済大国になった。その間、韓国は朝鮮戦争を経て、東西冷戦の最前線となり、貧しい時代を続けた。韓国企業は日本企業の下請的な存在だった。
植民地時代をほうふつさせる経済的な支配に、韓国人は屈辱感にさいなまれ、日本の再侵略の恐れを抱いたことだろう。その時代に強固な反日思想が生まれたと推測する。劣る対日競争力を反日攻勢で補った。反日教育の裏にはそんな意図があったと思われる。だから日帝時代を生きた韓国人からは、強い反日思想は感じない。反日思想は独立運動とは全く異質なものだ。
日本生まれの僕は反日教育を受けた記憶はない。日本人の子らと机を並べて教育を受けた。家庭教育も同様だ。食うための稼ぎに忙殺されていた父母に、子の教育を気遣う余裕はなかった。子ども時代は日本人から「汚い、臭い」と鼻つまみ者にされた記憶は鮮明に残っている。従って、韓国人であることが嫌だった。
民族意識を持ったのは、本国初訪問の時だ。その後は日本社会での差別との闘いで在日と群れた。同じ境遇の仲間たちとの群れは心地よかった。そしてそれが、40代の本国生活につながった。今、四分の三世紀を経た在日2世である僕の過去を振り返っている。反日・嫌韓、親韓・親日体験が豊富にある。在日生活で日本が好きになったり、嫌になったりした。本国生活の10年も、そんな体験の日々だった。そんな「好き、嫌い」を繰り返し、複雑な人間になった。
「おめぇはどっちの味方だ!」と中途半端をなじられる。複雑な僕の心境を誰もわからない。目まぐるしく変化した喜怒哀楽の体感、その体験には、何らかの意味があったと思える。民族的な尺度(物差し)がなく、頻繁な韓日往来で養われた「複眼思考」だ。韓日を同等に愛し、憎んだ。在日と在韓で突き破れない壁が立ちふさがった。諦観の境地に達し、在日の存在価値が見えた。
狭量な民族主義が、人類が理想とする多民族共生社会を阻害している。
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