40代の頃の母のことを覚えている。顔を左に20度くらい傾けて鏡の中の自分を確かめる。母が見ていたのは、自分自身の顔ではなく、白髪だった。当時高校生の私は月に一度くらい母の白髪染めを手伝った。白髪を染めながら母は「最近は写真に写るのが嫌」という話をした。私は白髪染めも母の言葉もすっかり忘れて過ごした。そして、自分が40代になった。いま私は顔を左に20度くらい傾けて鏡のなかの白髪をのぞき込む。モデルだった母が、写真を撮るのが嫌だと言ったくらいだから、平凡な私はなおさらだ。写真など産後、ほとんど撮っていない。だからといって、年を取るのが寂しいとは思わない。言うなら、曖昧、微妙だ。
ドラマ作家、ハン・ソルヒさんの『あたしだけ何も起こらない』(キネマ旬報社)は、そういう40代女性、白髪も出て、わき腹や背中に肉が付き始めた女性の、日常や心理を描いたエッセイである。著者はドラマ作家として『悲しき恋歌』や『アンニョン!フランチェスカ(シーズン3)』など大成功を収めた。親からは結婚しろとも言われなくなり、ぜい肉や不安、孤独だけ増していく日々を、丁寧に描いている。丁寧であるからこそ、誠実であるからこそ、くすくすと笑える場面が多い。
ある日、著者は、テレビを見ていた母と叔母が、韓国を代表する女優を見て「あの子、お嫁に行ってないんでしょ」と話しているのを耳にする。あんなにきれいでナイスボディで演技力が認められ、大成功を収めた女優でもそう言われるのかと思うと、苦々しい。富も美貌もない自分にはいつかパートナーができるのか、そう思うと一層孤独だ。「息詰まる静寂と孤独から抜け出したくて」友達に会い、慰めてもらい、助けてもらったお礼に支払いを済ます。そんなことを繰り返していて、月末に届いたカードの支払い請求書に仰天するのである。
著者は、結婚もせず、子どももおらず、仕事に没頭している自分の日常を「何も起こらない」ものだと解釈している。著者とは違って結婚し、三人の子持ちだが、私の日常にだって「何も起こらない」。既婚子持ち女性の日常は、掃除、洗濯、炊事の繰り返しに、仕事が追加され、身動きなど一切取れないものである。長女を生んでここ10年私は、軟禁状態だ。コロナ以前と以後で行動様式が変わったと言う人も多いが、私の場合は何も変わらない。
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