8月14日の「朝日新聞」読書欄「ひもとく」で翻訳者の斎藤真理子が金達寿作品をとり上げていた。その中で、金達寿は「日本文化の中の朝鮮を隠蔽する帰化人史観」を批判し「日本と朝鮮、日本人と朝鮮人との関係を人間的な関係にするために尽力した」と紹介していた。その記事を読んで、私は『季刊・三千里』創刊前後のころを思い出した。
『季刊・三千里』が創刊されるのは、1969年、京都で古代の日朝関係史を問う季刊誌として「日本のなかの朝鮮文化」が創刊(1981年50号で終刊)されたことに起因する。毎号司馬遼太郎、上田正昭、松本清張、金達寿の座談会などが組まれ、日本の歴史学者や文化人から圧倒的な支持を受けていた。
当時、この雑誌に関わっていた金達寿や夫(李進熙)たちは、東京でも近現代史を中心にした雑誌を創ろうではないかということになり、75年に『季刊・三千里』が創刊された。創刊の巻頭言には、「朝鮮と日本との間の複雑によじれた関係を解きほぐし、相互間の理解と連帯をはかるための一つの橋を架けていきたい」とあり、日本社会の朝鮮認識を正す一種の文化運動ともいえる。
編集委員は金達寿、姜在彦、金石範、李哲、尹学準、若いころの姜尚中など当時の在日知識人を総動員して『季刊・三千里』を50号まで、『季刊・青丘』を25号まで夫は編集長の重責を担った。この雑誌には当時の著名な知識人司馬遼太郎、上田正昭、大江健三郎、旗田巍、日高六郎など挙げればきりがないほど日本の文学者や研究者、ジャーナリストたちが寄稿している。飯沼二郎は「在日の問題が単に彼らだけの問題ではなく、日本人自身の問題だということへの理解を助けた。在日朝鮮人の人権が守られていない限り、日本の民主主義は本物でない」と高く評価した。
創刊当時、大学生だった高柳俊男は、NHKに朝鮮語講座開設の署名運動や朝鮮関係の読書会「鐘声の会」は三千里社を拠点に出発したこと、「季刊三千里と共に勉強し、成長させてもらったという点で、感謝を込めて自らを『三千里世代』と自称している」と回想している。
ちょうどその頃、朴鐘碩の「日立就職差別事件」が起きる。朴青年は、日立を相手に日本社会の民族差別の現実を厳しく問い闘った。この運動は、既存の民族組織とは関係なく日本人が支援の輪を広げ、市民運動として社会に大きな波紋を呼び起こした。時を同じくして、べ平連やウーマンリブといった新しいタイプの社会運動の流れの中で、4年におよぶ裁判闘争は勝利した。やがて、仮寓の地だったはずの日本が「在日を生きる」というフレーズで語られるようになる。
1970~80年代、金達寿を真ん中に、若い頃の司馬遼太郎、上田正昭など多くの文化人との交流が育つなかで「帰化人史観」を問題化した。そして朝鮮と日本、相互間の理解と連帯をはかり、「在日」とはいかに生きるべきかを問うた「『季刊・三千里』『季刊・青丘』の果たした功績は大きい(敬称略)。