2005年は韓日国交正常化から40周年。韓国が日本の保護下に入った1905年から100年目であり、45年の祖国解放から60年目になる節目の年でもある。今後の韓半島と日本がどうなるか、姜尚中・東京大学教授、李鍾元・立教大学教授、白眞勲・民主党参議院議員、若宮啓文・朝日新聞論説主幹の4氏に語り合ってもらった。
司会 韓半島と日本について語り合う序章として、まず各自の私的体験からお聞きしたい。
姜 在日をテーマにした映画『血と骨』の冒頭で、済州島から日本への連絡船に乗った乗客、流民といってもいいが、彼らが日本を見てわき立つシーンがあるが、あのシーンに当時の韓国人の置かれた状況が如実に表れていると思う。在日はそうやって日本に根付いていった。私は在日2世で、熊本の在日韓国・朝鮮人の集落に生まれた。子どものころは野球をやっていた。私がプロ野球選手になってお金を稼ぐことが母の夢だった。在日出身のプロ野球選手・張本勲が在日社会のヒーローだった時代だ。
65年の韓日条約締結前、韓国にいる祖父母が相次いで亡くなったが、国交がないため韓国に行くことが出来ず、両親が泣いていたことを覚えている。65年以前は韓国に電話をかけるのも大変だったと記憶している。そのためか、両親は韓日条約が締結されたらすぐに韓国籍に切り替えた。高校卒業後、早稲田大学政経学部に入学したが、金嬉老事件や早稲田の学生で帰化していた山村政明さんの焼身自殺事件などがあり、在日とは何かを自問する日々だった。
72年に初めて韓国に行ったが、ちょうど7・4共同声明が発表された年で、大変な時に来たという思い出が残っている。その後、大学で韓国文化研究会(韓国学生同盟)に入った。7・4南北共同声明により統一は近くなったとの意見があり、総連系の朝鮮青年同盟との共同集会開催もあったが、、信頼する先輩から、「これは両独裁政権の延命策だ」といわれた。確かに72年に唯一思想が共和国憲法に盛り込まれ、維新体制も72年に起きた。その先輩の直感は正しかった。そして韓国の民主化が先であり、まず民団内民主化が先との意見が強くなった。73年の金大中拉致事件に衝撃を受けたし、翌年、李先生も逮捕された民青学連事件が起きたときは、仲間が集まって大使館に抗議デモに行くなど、在日の学生運動に参加していた。
白 私は父が在日1世で、母が日本人である。自分が韓国人と痛切に感じたのは、やはり就職のときだった。私は日本大学大学院を修了したが、学友は次々と就職先が決まるのに、私には何も連絡がない。これがいわゆる差別なのか、自分はやはり在日と感じたのが就職のときだ。
その後韓国の大手新聞社、朝鮮日報社の日本支社に入り、その後日本支社長としてずっと韓国と関わってきた。それが私の出発点だ。
その朝鮮日報の日本特派員といえばほとんどがソウル大卒で、韓国では超一流のエリートだが、それが日本に来るとアパートさえ満足に借りることが出来ない。当時、「外人、ペット、水商売おことわり」と貼り出したマンションがあったが、韓国のエリートでもここ日本ではくず同然の待遇なのかとがっくりした。
変化を感じたのは86年。それまで日本人の韓国を見る眼は「ニンニクくさい」などの偏見があったが、アジア大会で韓国の映像が伝わって、「韓国はこんなに発展しているの?」という声が出始めた。もう一つは88年ソウル五輪の開会式のときだ。夕方焼き肉屋さんに行列が出来ているのを見て、日本が変わり始めたというのを実感した。
若宮 私は自分のルーツは韓半島と信じている(笑)。父方の祖母がどこから見ても韓半島出身という顔立ちで、関東大震災のときに朝鮮人狩りがあったが、そのときに祖母は検問で、「パピプペポを言ってみろ」といわれたぐらいだ。
それはともかく、朝日新聞社で政治部にきてしばらくしたころ、韓国語を勉強してみようと思って朝日カルチャーセンターに入学した。仕事が忙しくなってすぐに挫折したが、それでもカナダラぐらいは読めるようになった。79年に取材で初めてソウルへ行ったが、日本と似ているし、とてもなつかしい感じがした。そして意味はわからなくても、ハングルが少し読めるのがうれしかったのを覚えている。
一方、80年9月に自民党AA研の代表団の同行取材で北朝鮮に行った。今度は北から板門店も見たわけだ。あのころ両方から板門店を見た人は珍しいと思うし、分断の現実を肌身で感じた。
翌81年9月から1年間、社の留学制度を使ってソウルの延世大学に語学留学した。その期間にソウル五輪開催が決定したのはよかったが、教科書事件が起きたりと、ハードな対日関係が続いた。個人的には韓国人の友人が多く出来て、現在につながっている。
李 私と「日本」との関わりは最初からやや「政治的」だった。私は韓国生まれだ。製鉄業の発展が祖国に必要と考えて大学は金属工学科に進んだ。大学に入ったのは72年で、その年に10月維新があった。韓国は軍事政権だったがこの10月維新のように、町中に戦車が出たり、大学内に軍隊が入ってきたのは初めてで怒りを覚えた。これをきっかけに軍とは、政治とは何かを考えるようになった。
74年、民主化運動が弾圧されたいわゆる「民青学連事件」で逮捕され、懲役10年を宣告された。それで獄中で外国語をマスターしようと考え、日本語を勉強することにした。韓国では”禁書”が多く、知識を広げたいと考えたのも一つの動機だ。
民青学連事件では日本人の太刀川、早川の両氏も捕らえられ、一つ隣の独房にいたが、日本人が韓国の民主化になぜ関わるのだろうと思い、日本を意識し始めた。
また獄中には、北のスパイ事件で死刑判決を受けた在日韓国人もいた。学生だけでなく、在日実業家で祖国統一を目指した人もいたが、これが初めて知り合った在日だった。日本に来たのは82年。当初は日本に2、3年いて、その間社会科学の勉強をしようと考えた。
当時は日本が国際化路線を唱えはじめた頃で、日本の大学で外国人も教鞭を取れるようになるなど、日本の国際化が進行する中で恩恵を受けた形になった。教会で知り合った日本人とか、新聞記者とか、日本人にも様々な考えの人がいることを知ったのも大きかった。3年ビザの更新で今まで来ている。妻は在日2世だが、自分は「在日」という自覚はない。しかし最近、長年日本に住む人間として、日本のあり方も考えなくてはと思ったりもしている。
司会 2番目に、この40年間の歴史で忘れられない出来事を話していただきたい。
若宮 先ほども述べたように81年の韓国留学だ。当時韓国は軍事政権だし、朝日新聞の空気は韓国にきびしかった。しかし政治は別として、私は韓国に親近感を感じていたし、庶民の日常生活は軍事政権下でも生き生きとしていた。教科書問題が起きたときは、いやがうえでも日本というものを意識したし、韓国の反日意識もなぜここまでかという部分もあった。テレビも新聞も連日この問題を報道し、子どもの会話やテレビのコントにも出てきた。独立記念館の建設募金も毎日報道される状況だった。日本が韓国を意識するより、韓国の日本に対する意識の方がずっと強かった。これが強烈な体験だった。
W杯共催をめぐって日韓がしのぎをけずっていたとき、社説で共催論を提案したのも忘れられないできごとだ。批判も大きかったが、W杯が共済できたらとても意義あると考えていたので、実現したときは本当にうれしかった。この共催が今の冬ソナブームに結びついていると思うので、よけいに感無量だ。
姜 79年にドイツ留学したとき、教室の仲間がベルリンに行ったが、韓国と東ドイツは国交がないので私や台湾の学生は行けなかった。戦争加害国の学生より、台湾や韓国という被害国の学生が自由に行けないことに釈然としない思いを感じた。
その後、ベルリンの壁が崩壊し、2000年に初めてベルリンに行ったときは感慨深いものがあった。東西対立はこんなにあっけなく崩壊するのかと思った。
そして2000年6月に韓半島で南北首脳会談があったが、これは本当に大きな会談だと実感した。後になって南が北に会談の見返りとして資金を渡したことが判明し、首脳会談を金で買ったとの批判があったが、平和なき正義より正義なき平和のほうがいい。金で買える平和ならそれでもいいのではないか。
日本の大衆文化開放も金大中前大統領がやったが、成果は大きかった。南北会談と日韓関係の功績で彼はノーベル平和賞をもらったが、それだけ価値のある行動をしたと思う。
李 2000年の南北首脳会談のときは米国にいたので、韓日での生の反応は知らないが、最近のヨン様ブームを見て思うことがある。ソウル五輪以後、韓国で外国旅行に対する規制がなくなり、冷戦終結により意識変化が起きたのも、この10年ほどのことだ。そして韓日条約40年というが、両国の庶民が直接的に同じ目線で見始めたのは、ほんのこの数年だと思う。韓国が政治的、経済的に日本と同じ目線になってきたことが、韓流の背景にあると思う。
だから北朝鮮と日本との国交正常化が成されたとしても、両方の市民社会が接近するには、さらに50年かかるかも知れない。日韓40年の教訓はそこにある。国際政治の力学により政府レベルで関係を修復しても、社会が近くなるには30年かかるということだ。そういう意味で、小泉訪朝後の拉致問題と北パッシングがどうなるかは注目される。
若宮 姜さん、李さんという2人のハンサムですごく知的な学者の果たした役割も大きい(笑)。W杯の前にコリアンJリーガーの活躍があってW杯につながっているし、歌謡界でも趙ヨンピルが日本でも評価されて、それが現在につながっていると思う。
姜 70年代末の欧州では、韓国はアジアの小さな独裁国家としか思われていなかった。それが先日ベルリンに行くと、サムスンやLG、ヒュンダイの広告がとても目に付いた。もちろん企業の繁栄イコール社会の繁栄にはならないが、この10年の急速なグローバル化が韓国に矛盾と共にチャンスをもたらしたことは事実だ。97年のIMF危機を乗り越えて、最近の厳しい経済状態はあるものの、ここまで順風満帆にきたと思う。
そして今、韓国はジャパンゲートを超えないと世界の韓国になれないし、日本は韓国ゲートを超えないとアジアの日本になれない。日本はアジアに対して常に後ろめたいものを持っているが、コリアゲートを超えればアジアの日本になれる。
白 先ほど述べたように韓国文化への関心が日本で高まり、韓国でも日本への関心が高まった。そういう時代に一部の閣僚の問題発言がワンフレーズだけ報道され、それが怒りの増幅につながるのを何とかしないといけないと思った。そこで朝鮮日報の日本語ホームページを立ち上げようと考え、社内の了解を得た。韓国にいる日本人記者、企業関係者、日本の韓国フリークなど1日2000件ぐらいのアクセスを考えていたら、スタート日から2万件ものアクセスがあり驚いた。
このホームページでは、キムチジュースが出来たとか韓国の面白いニュースも伝えたりしたが、政治の話題が主である当時としては画期的なことで、両国の一般大衆の目線が同じになる一助を果たしたと自負している。
それと経済分業の面でもっとも印象に残っているのは、新日鉄の協力を得て浦項製鉄が建設され、今では合併をしていることだ。また現在、サムスンが年間1兆円だったか莫大な売上を記録しているが、韓国からそんな企業が出てくるというのは私の学生時代には考えられなかった。そういう経済発展があるから、両国がいろいろな分野での相互交流をしているのだと思う。
司会 韓日は長い葛藤と摩擦を経ながら、関係を緊密化させているが、いま両国関係はどのような段階に来ていると考えているか。
李 東アジアは急速に統合の時代を迎えようとしている。とりわけ韓日は社会、経済的に急速に統合しようとしている。これはマーケットの論理でもあり、中国も巻き込んで経済的な壁はなくなりつつある。
しかし一方ではナショナリズムの残像がある。中国が台頭し、南北韓は長期的な視点で見ると統一に向かおうとしている。相対的に日本の位置は小さくなりつつある。そのような状況下で日米安保、日米関係の再編が成されている。
社会、経済的には統合が進み、政治、安全保障、地政学的には分裂が進んでいる現在の状況に対して、どうバランスを取るかが最大の課題だ。北をめぐる韓日の見方も戦略的な利害の違いから来ている。そういう意味で東アジアは大きな転換点に来ている。
日本は強いアジアと共存した経験がない。中国が強くなったとき、または韓半島が一つになったとき、日本はどうするかということでナショナリズムが蠢(うごめ)きだす。地政学的な脅威論の応酬を乗り超えるためには、日本を含め東アジアは旧来の国民国家的な考えから抜け出さないといけない。
姜 李さんの意見に基本的に賛成だ。日本は将来の不安を米国に依拠することで生き抜こうとしている。韓日には歴史問題といいう懸案もあるが、最大のギャップは北朝鮮問題で、そのギャップを埋められないまま韓日関係が出来ている。
ブッシュがアジアで軍事力に頼る外交を行おうとしたとき、韓日は亀裂を埋められなくなる可能性がある。韓日の政治家の政治・外交の調整が大問題になりつつある。
白 確かに政治の面で関係は今一歩という感じがぬぐえない。両国とも世代交代が進んで、逆にギャップが生じている。両国の議員同士がもっと交流を進めてお互い理解するようにしないといけない。
「日韓からアジアの新機軸を考える会」を作ったが、現在71人の民主党議員が入っている。韓国の議員も加わっており、今後、様々な分野で勉強会などやるつもりだ。両国とも新しい議員がお互いに尊重しながら率直に話す関係が重要だ。
若宮 日韓フォーラムをこれまで11年、12回やってきたが、明らかに変化した。最初のうちは韓国側はやはり歴史問題を問うところから始まり、日本側が弁明するという状況だった。
ところが昨年下関でやったときは、親日究明法や韓国の核問題について、日本側が鋭く問題提起したりして攻守入れ替わったほどだった。また、ある韓国メンバーが、韓日よりもいまは韓韓対立というか韓国内部の社会の亀裂が強いと発言していたのも印象的だった。
姜 この間、ドイツに行って感じたのは、東ドイツが崩壊した後、西側の東ドイツ出身者に対するギャップだ。東の中でも亀裂がある。冷戦崩壊後、最近になって韓国内部でも世代間、与野党など、様々なところでギャップが出ている。日本ではその亀裂が憲法問題に表出されている。国民のアイデンティティーが揺れている。ねじれ現象が表面化している。
李 韓米日とも内部にそれぞれ問題を抱えている。米国の内部分裂は韓国以上にすごい。ただ韓国の場合、盧武鉉政権の未熟さはあるにしても、米国の政策のために揺れているという状況がある。相互依存派といえる国際派と、新冷戦派という自主国防路線の対立がどこの国にもある。韓国という国を今後どうするかという難しい状況に盧武鉉政権は置かれている。
司会 いま韓日の貿易額は500億㌦を超える巨大な結びつきだ。朝日関係でも日本の総合商社は朝日国交正常化後をにらみ始め、韓国企業と一緒に北に進出しようとする動きもある。も考えている。そういう経済的結びつきの側面からみればどうか。
白 浦項製鉄が出来たとき、ブーメラン効果ということがいわれた。面倒を見た韓国が発展すると、逆に日本の企業が不利益を受けるということだ。ところがいまは両国は大切なパートナーだ。数年前にサムスンの社員が日本から学ぶものがないといったら、サムスンの社長がそれはとんでもないといった。技術的にまだまだ日本に学ぶものが多いからだ。確かにウィンウィン(ともに勝利)関係は強くなっている。
李 小泉首相の靖国発言が弱まったのも財界の意向があるからだ。しかし、経済的利益よりも政治的アイデンティティーを優先する場合もある。政治とは人々を掌握するゲームだからだ。相互依存するほどに社会が近づくと、隣人に外国人が増える。そうすると不安になってアイデンティティーを考える。アジアは特にナショナリズムの虚像が強いので、それを乗り越えるには時間がかかるだろう。
司会 今後の韓日関係はどうあるべきか。未来に向けた提案をしてほしい。
姜 韓国と北朝鮮の緩やかな統一過程は、冷戦の終わりの始まりともいえる。ドイツの場合には89年に東ドイツから加速的に人が流出してきて統一へ進んだ。欧州という大きな枠組みの中での和解も進めようとした。
アジアの場合はそういう枠組みがない。それは危険なことで、いつアクシデントが起きるかわからない。北朝鮮が震源地に成りかねない。
韓日はアジアの多国間関係を模索し、その中での韓日の方向性を考える政策が必要だ。北は簡単に崩壊はしないと思うが、政権交代は起きるかもしれない。その時、軍事政権になったら最悪の選択だ。そういう危険性も考えて韓日は北に対応すべきだ。
若宮 日韓が歩調をそろえるのは大切なことだ。日韓の協議は互いの関係だけでなく、テーマを常にマルチにし、複雑な国際関係の中で互いの協調を図るようにすべきだ。
白 北を常に意識しながら両国の関係を考えるのは当然なことと思う。その為には、大衆がお互い関係を深めること、例としては教育、原発、環境問題などに目標を定め、お互いにもっと関係を深めたらいいことがあるよ、いいアイデア、解決策があるよという認識を持つのが大切だ。
李 韓日関係を深めるためにどれだけの事をやってきたかというと、金大中政権は積極的な政策を取った。北との関係についても、日本の大衆文化開放も、北と日本が関係を深めることも、そのほうが自分たちに利益になるということがわかっていたからだ。
逆に日本政府は一貫して消極姿勢が目立った。韓日関係を深めるためにどれだけ日本の政府が資源を使ったのか疑問だ。逆に一般大衆の方が積極的だった。交換留学生をもっと増やすとか、これからでも方法はあると思う。
若宮 その通りだ。W杯共催や冬ソナに日本政府は救われたにすぎない。
司会 在日の未来についてはどうでしょうか。
姜 在日は一つでくくれなくなった。悪くいうと不協和音、よくいうと多様化してきた。その多様化の良さがまだ生かされていない。それは植民地との関係でしか在日を見てこなかったからだ。いまは多元的な軸をおかないと在日を見ることが出来ない。日本国籍か、本名か日本名かということより、何らかの形で韓半島とかかわりをもっていることが大切だ。冬ソナブームを見ていろいろな感情を持っている在日がいると思う。韓半島の両国家が共存し、そして日本との交流が深まれば、在日の生きる選択肢が増えることも確かだ。在日はこれまで選択肢が狭まっていたから、かなり窮屈な発想から抜け出せなかった。在日は今後、重層的に見つめ直さないといけない。もっとアジアに出て行ったり、多様な生き方ができると思う。
李 在日は植民地支配の結果生じた歴史的負の遺産だけれども、逆に地域をつなぐ存在にもなりうる。華僑は東南アジアのつなぎ役だった。いま在日を見ていると、つなぐだけでなくそれぞれの国を変える存在でもあると思う。在日は国民国家の枠組みからははみ出る存在で、それは国民国家の虚構を暴き出す存在でもある。日本国籍を取得して同化が進めば、在日はいずれ消えていく存在だと一時期言われたが、私の周囲の在日を見ても、帰化しても文化的アイデンティティーはなくならないし、グローバル化した社会では逆に拡大再生産すると思う。韓日両国もそう考えて在日を活用すべきだ。
若宮 新井将敬議員が数年前に自殺する事件があったが、新井さんと白さんを見て時代の流れを感じる。昔は日本国籍を取ったら日本名というのが当たり前だったのが、韓国名の立候補が受け入れられる社会になっただけでも大違いだ。
従来は在日問題はインターナショナルな問題ではなく、国内の差別問題としてしか捉えなかった。だけどもこれだけ他の外国人が増え、韓国のイメージも変わると在日のイメージも変わる。国内の差別問題を超えて国際化の中で考えると、在日の意味や役割も変わってくるだろう。姜さんのように国際政治で発言して支持を得るのもその一つだと思う。
白 日本の国際化の試金石は、在日と付き合うことから始まる。私は在日に生まれたことで多くの経験をした。韓国籍で半生を生きて、残りは母親の国籍の日本人として生きようと思った。最初から議員になろうと思ってもいなかった。民主党から話があって、せっかくの機会だからと決意した。自分のルーツが韓国だというのをあまり表に出していない人がたくさんいる。それはそれで致し方ない面はあったと思う。そういう中で、在日の青年に、自分のように出自を明らかにして日本の選挙に臨む人がいる、それを自分で体現しようと思った。私と同じ考えをもっている文化人も出てきてほしい。また名乗りたいという有名芸能人もたくさんいるはずだ。子どもや孫の世代に、「私のルーツは韓国だよ」と自信を持って言えるような夢と希望を与えたい。自分の人生は楽しまないといけない。
姜尚中 カン・サンジュン 1950年熊本生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。現在東京大学社会情報研究所教授。専攻は政治学、政治思想史。著書に『日朝関係の克服』(集英社新書)、『在日』(講談社)など。
李鍾元 リー・ジョンウォン 1953年韓国生まれ。82年来日、東北大学法学部助教授を経て立教大学法学部教授。専攻は国際政治。著書に『東アジア冷戦と韓米日関係』(東京大学出版会)など。
白眞勲 はく・しんくん 1958年東京生まれ。日本大学大学院生産工学研究科博士前期課程建築工学専攻修了。朝鮮日報日本支社長を経て、2004年7月参議院議員選挙比例区に民主党から立候補し初当選。現在予算委員、外交防衛委員、国際局副局長など。
若宮啓文 わかみや・よしぶみ 1948年東京生まれ。朝日新聞社政治部長などを経て2002年から論説主幹。「日韓フォーラム」メンバー。著書に『戦後保守のアジア観』(朝日選書)、『韓国と日本国』(共著、朝日新聞社)など。