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2006/04/21

<鳳仙花>◆申相玉・映画監督の遺言◆

 韓国の著名な映画監督・申相玉氏が亡くなった。享年79歳。1952年に「悪夜」で監督デビュー以来、50年代は絶望的現実を告発するリアリズム的傾向の強い作品が多かったが、その後文芸映画や史劇、戦争映画に挑戦した。メロドラマあり、コメディー、ホラーなど多様なジャンルの作品を多く残した。申フィルムを運営、後進を養成するなど韓国映画の基礎をつくった人でもある。大作「ジンギスカン」構想が具体化していただけに、惜しい人を失った。

 申監督は、映画のような波瀾万丈な人生を歩んでおり、大作「指輪物語」や「マトリックス」を製作したハリウッドの著名なプロデューサー、ベリー・オズボーン氏が、申監督の芸術魂に焦点を当てた韓米合作映画の計画を明らかにしている。東京帝大を出た申監督は木下恵介監督、篠田正浩監督ら日本映画界に知己も多く、カンヌ映画祭審査委員も務めるなどその存在は世界的だった。

 特に、北朝鮮では知らない人がいないほど有名だ。92年に脱北した姜哲煥・朝鮮日報記者は、「映画『鉄路をつたい千万里』で、傘で隠してはいたが、男女がキスするシーンに衝撃を受けた記憶が今でも生々しい。これまで北朝鮮の映画では見ることができなかった男女の自由な愛情は北の人々を熱狂させた」と振り返り、申監督の死を北の人民が知ったら、韓国の人に劣らず哀悼するだろうと書いている(15日付朝鮮日報)。

 申監督は78年に北朝鮮に拉致され、86年に脱出するまで、8年間北朝鮮で生活した。申監督は、自分より半年前に拉致された妻で女優の崔銀姫と協力して、北で「赤い翼」「プルガサリ」「洪吉童」など17本の映画をつくった。どの作品も爆発的にヒットした。北人民に愛されたのである。

 映画製作には北の多くの人々の協力があった。申監督は、北生活8年間の手記「闇からの谺(こだま)」で、「芸術を喪失した多くの人々が申フィルムに集い、希望に満ちてあらゆる情熱をそこに注ぎ込もうとした。私はその民衆の力を忘れることができない」として、対立と憎しみを止め同胞愛を呼び起こすよう呼びかけている。苦難の体験をなめながらも民族の立場を忘れなかった人でもあった。冥福をお祈りします。(S)