日本サッカー協会元会長の長沼健さん(77)が2日、肺炎のため死去した。日本サッカー界に多大な貢献をした方で、2日夜に行われたW杯アジア予選オマーン戦では、日本代表は左腕に喪章を巻いて試合に臨んだ。
その長沼さんは、韓国サッカーと深い因縁のあった人だった。54年3月7日、東京で行われた日本初出場のW杯予選は、初の韓国との対決でもあった。前日の雪が残り泥んこの中の対決で、FWの長沼さんは先制点のゴールをあげた。試合は5対1対で韓国が勝利、これが韓国との長いライバル関係の始まりだった。
選手、監督生活を経て、サッカー協会会長として、2002年サッカーワールドカップを何としても日本で単独開催しようと動き回ったが、96年5月、FIFAから「韓国との共催を受け入れてほしい」と請われたとき、苦渋の判断で共催を受諾。その後はサッカー協会の面々に共催を説得したという。
もう一つ、97年のフランスW杯アジア予選で、カザフスタン戦に引き分けた加茂周監督を突如解任し、岡田コーチ(当時)を監督に起用し、サポーターから批判を受けた。この交代劇も、その直前の韓国戦で日本が敗れたことに起因している。
このように韓国に苦い思いを味わってきた長沼さんだったが、考えが変わったのは97年11月1日のソウルで行われたW杯予選の韓日戦だという。韓国がすでにW杯出場を決め、日本はこの試合に出場がかかっていた。長沼さんがスタジアムで見たのは、何と韓国サポーターが掲げた横断幕「一緒にフランスW杯に行こう」だった。
それを見て時代の変化を感じ、韓日共催は成功すると確信したという。いわば対決から和解と協力に向かった瞬間だった。W杯共催の成功は、いまの韓日交流、韓日サッカーの発展に結びついている。両国の発展と交流を願った長沼さんの遺志も、受け継がれていくだろう。合掌。(L)