「日本と在日韓国・朝鮮人の相互理解」「多民族共生社会」をめざして88年にスタートした川崎市ふれあい館(神奈川県)が、22年目の春を迎えた。「共生」という概念がまだ一般化していない日本社会で、公的施設として全国でも初の試みだったが、「共生」の殿堂として、地域社会の発展と差別解消に果たした役割は大きなものがあった。
館の誕生には、川崎の歴史が深く関わっている。工業地帯であった川崎では戦前、多くの韓国人が徴用などで働き、戦後は貧困や民族差別にあえぎ、地域社会から阻害されていた。こうした状況の中、故李仁夏牧師らが就職差別やアパートの入居拒否などに対して闘っていた。
それに共鳴した川崎市の伊藤三郎市長(当時)が、在日と日本人の共生を目指す施設の建設を約束したのだった。しかし、開館には、様々な困難があった。「我々は差別をしていない」「寝た子を起こすな」など反対の声が地元から起き上がり、市議会の協力も難航して、建設は進まなかった。
地域住民や議員を説得するために、故李仁夏牧師とともに一軒一軒訪ね歩き、支援と理解を訴えたのが、3月末で退任した裵重度(ペ・ジュンド)館長だ。
行政の委託を受けて館を運営するという、全国でも例のない館運営がスタートして、裵さんは初代館長に就任した。公的施設である以上、常に地域住民と行政の理解を求める必要があり、苦労は尽きなかったという。「同胞にどう奉仕し、一般の人々のニーズをどう理解するか」「相手を尊重してこそ、こちらも尊重される信頼関係を築ける」との信念で活動したという22年間だった。
識字学級や在日高齢者の会設立、近隣の学校との交流事業など、「共生」のモデルケースとなった同館には、韓日の自治体担当者や研究者も視察に来るなど、年平均4万人が利用するまでになった。新館長のもと、「共生」を今後も広めてほしい。(L)