◆重厚な洋風建築、当時は金融の総本山◆
韓国銀行は日本の日銀に相当する韓国の中央銀行で、1948年に大韓民国政府が発足したのに伴い、韓国戦争勃発直前の1950年6月12日に発足したが、その旧本館は日本時代の朝鮮銀行の建物がそのまま利用された。
大韓帝国(旧韓国)の時代、紙幣の発券業務は日本の民間銀行である第一銀行韓国総支店が行っていたが、第一次日韓協約によって旧韓国の財政顧問となった目賀田種太郎は、民間銀行が実質的に外国の中央銀行の業務を行っているのは問題であるとして、1909年、旧韓国政府や日本と旧韓国の皇室などから資本を募り、あらたに中央銀行として韓国銀行(旧)を創設した。
この韓国銀行(旧)が、日韓併合後の1911年、朝鮮銀行と改称された。朝鮮銀行は、朝鮮の紙幣である朝鮮銀行券を発行するとともに、朝鮮総督府に対する資金の貸し付けを行うなど、朝鮮の実質的な中央銀行のような存在であったが、同時に、一般向けの融資や手形の割引なども行っており、文字通り、朝鮮における金融の総本山であった。
その本店の建物は、東京駅で知られる建築家・辰野金吾が行った基本設計を元に、浜松出身の建築家・中村與資平が実施設計と工事監督を担当し、1912年に完成した。なお、中村は、朝鮮銀行本店の建築を成功させた功績により、朝鮮銀行の建築顧問に就任するとともに、京城(現ソウル)に事務所を構え、朝鮮半島や満州に数多くの近代建築を残している。
解放後、朝鮮半島が米ソ両国によって分割占領されると、米軍政下の南朝鮮ならびに独立初期の韓国では、1950年6月に現在の韓国銀行が発足するまで、朝鮮銀行が引き続き南朝鮮ウォンを発行し続けた。
韓国銀行の発足後も、旧朝鮮銀行の発券した紙幣は有効とされた。しかし、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、同28日にソウルが陥落すると、進駐してきた朝鮮人民軍(北朝鮮軍)は韓国銀行本店に保管されていた紙幣を接収し、これを市中で大量に使用した。その中には、当時流通していた100ウォン紙幣の他、インフレの進行にあわせて準備されていたものの、朝鮮銀行時代には発行されずに終わっていた1000ウォン紙幣も大量に含まれていた。
一方、韓国政府はソウル陥落と同時に北朝鮮が朝鮮銀行券を接収し、使用することを想定し、陥落翌日の6月29日、東京支店を通じて日本政府に韓国紙幣の印刷を要請する。そして、日本の印刷廳で新たなデザインの1000ウォン紙幣152億ウォン相当と、100ウォン紙幣2億3000万ウォン相当を印刷してもらい、10日後には米軍の軍用機を使って金海空港に空輸して朝鮮銀行券と交換させた。これが、現在の韓国銀行として発行した最初の紙幣となる。
なお、解放後の南朝鮮・韓国の紙幣は、日本製のものの他、朝鮮書籍印刷株式会社で製造されたものが流通していたが、1951年10月に韓国造幣公社が設立され、以後、原則として同公社が韓国の紙幣を製造するようになっている。
さて、開業当初、韓国銀行の本店本館として用いられていた建物は、韓国の経済成長に伴い、韓国銀行の業務が飛躍的に拡大したこともあって手狭になり、隣接する新館にオフィス機能が移った後、2001年6月13日から、貨幣金融博物館として再オープンした。
博物館は入館無料で、4つの展示スペースに分かれているが、内容的には、大きく、韓国銀行について説明した第1~3展示室と古代から現代までの内外の貨幣を展示した第4展示室に分けられており、韓国の通貨や金融とその歴史がコンパクトにまとめられている。
ところで、地上から見上げる建物は迫力があるが、通りの反対側にある中央郵便局のエレベーターに上って最上階にある会議室前の廊下から見下ろす建物もなかなか格好いい。機会があったら、ぜひ一度、眺めていただきたい構図である。