◆2番目に古い近代橋梁、韓国現代史の舞台に◆
朴正煕・陸軍少将らの率いる約3600名の“革命軍”(空挺団、海兵第一旅団、第五砲兵団)が、海兵隊を先鋒として漢江人道橋を渡ってソウル市内に侵入したのは、いまからちょうど50年前の1961年5月16日午前3時のことだった。
漢江人道橋付近では“革命軍”と憲兵隊の銃撃戦が発生したものの、それ以外には、政府側の大きな抵抗はなく、まずは陸軍本部と放送局が、ついで、中央庁や国会議事堂などソウル市内の主要部分が短時間のうちに制圧されていった。
以後、1979年10月まで、18年にも及ぶ朴正煕時代の幕開けとなった“5・16軍事クーデター”(以下、“5・16”)である。
事件から1年後の1962年5月16日、朴政権が発行した“革命1周年”の記念切手には、漢江人道橋を渡る革命軍の姿が描かれている。
この橋に、1981年に車線が追加したものが、現在の漢江大橋だ。漢江大橋は、漢江人道橋の時代から含めると、現在、ソウル特別市と京畿道の範囲で漢江にかかる27のうち、1900年に竣工の漢江鉄橋(韓国鉄道公社の京仁線が走る橋)に次ぎ、2番目に古い近代橋梁だ。
漢江人道橋は、漢江鉄橋の東側で、ソウルの龍山区と銅雀区を結ぶ橋で、最初の橋梁は1917年10月に完成した。
しかし、この橋は1925年7月の洪水で流失してしまったため、1935年10月、2度目の橋がかけられた。
この2度目の橋は、1950年6月28日、韓国戦争の際に南侵してきた朝鮮人民軍(北朝鮮軍)のソウル侵入を遅らせるため、橋を渡っている途中の避難民もろとも、漢江鉄橋などとともに爆破され、休戦まで再建されなかった。
ちなみに、朝鮮人民軍の漢江人道橋到達は、爆破から6時間後のことである。
なお、休戦後、漢江人道橋は1954年に完全復旧したが、3路線ある漢江鉄橋は長らく仮復旧の状態が続き、C線の復旧が終わったのが1957年7月、A・B両線に至っては、1965年の日韓基本条約によって獲得した資金を投入、1969年、因縁の6月28日になって、ようやく完全復旧となった。
さて、朴正煕が漢江人道橋を渡ってクーデターを起こした背景には、当時の張勉政権下での救い難い混乱があった。
すなわち、1960年4月の学生革命で李承晩政権が崩壊した後に発足した張勉政権だったが、与党・民主党内の新派・旧派の対立から、旧派が脱党して新民党を結成。両者の泥仕合は政治の機能不全に陥っていた。
また、李承晩時代の清算に伴い、多くの財界人が不正蓄財法違反の対象者とされたが、このことは経済活動の停滞をもたらした。
そうした中で政府が行った通貨切り下げと公共料金引き上げは、物価の高騰をもたらし、労働運動を激化させた。
さらに、1961年になると、慶尚北道と全羅南道を中心に約30万戸の農家で食糧難が深刻な問題となり、3カ月後には救済を必要とする農家が90万戸(全農家の4割)に達する見込みとの報道が韓国各紙でなされるようになる。
完全失業者は政府発表でさえ130万人(米経済援助機構USOMの発表では300万人)にも達しており、韓国経済は危機的な状況だった。
それにもかかわらず、張勉政権は、2月8日、米側の一方的判断で援助を打ち切ることを盛り込んだ韓米経済および技術援助協定を調印し、国民の憤激を買っていた。
さらに、前年来の“自主統一運動”は、1961年に入るとさらなる盛り上がりを見せ、3月22日には、ソウル市庁舎前で約1万5千名が集会を行って反共法とデモ規正法の制定反対、張勉内閣の即時退陣を要求。デモ隊が首相官邸と国会に押し寄せ多数の逮捕者を出す騒擾事件が発生した。
こうした文民政権のあまりの無能ぶりに不信感を募らせた軍内では、前年から朴正煕ら少壮将校がクーデターを計画し、ついにそれは“5・16”として実行に移されたのであった。
漢江を渡って権力を掌握した朴正煕は、国内にあった根強い反対論を抑え込んで日本との国交正常化を達成し、その見返りとして獲得した資金を元手に"漢江の奇跡"と呼ばれた経済成長を実現した。