1970年代に入り、韓国の友好国である米国と日本が中国との国交正常化を達成したことに戸惑い感じ、対中関係改善に乗り出した朴正煕政権。藤野忠次郎・三菱商事社長はじめ関係者の尽力で、朴大統領と鄧小平との首脳会談が実現寸前にまで進展していく過程を、永野慎一郎・大東文化大学教授に寄稿していただいた。
1970年代に入ると、韓国をめぐる国際環境の変化が生じた。
米中国交正常化に続き、日中国交正常化が達成されたことで、友好国の対中政策変更に戸惑いを感じた朴正煕政権は自主外交を試みることになる。これらの動きに触発されたのが、1972年7月4日、ソウルと平壌で同時に発表された「南北共同宣言」である。
また、日中関係の変化に伴って、周恩来中国首相は、三菱グループの代表4社(三菱商事、三菱重工業、三菱電機、三菱銀行)社長団を招請した。
三菱グループは韓国との関係が強かったので、「周4原則」に抵触していた。「周4原則」とは、①台湾、韓国を援助している企業②台湾、韓国に多額の投資をしている企業③ベトナム、ラオス、カンボジアに武器を提供している企業④在日米国系企業とは取引しないというものであった。しかし、周恩来は三菱グループを例外として招請したのだ。
三菱グループ訪中団が出発する前に、藤野忠次郎三菱商事社長は朴大統領と面談し、理解を求めるとともに、「将来、韓国は中国との交渉が必要です。中国もやはり北韓と血盟関係があるけれども韓国の経済発展に関心を持っているはずです。朴大統領と中国指導者間のメッセンジャーの役割を私が受け持ちます」と述べた。朴大統領は藤野の提案を快く受け入れた。
73年4月、訪中した藤野忠次郎は周恩来に朴正煕という人物を紹介してメッセージを伝達した。藤野は中国訪問の度に韓国問題と関連した朴正煕のメッセージを伝えた。
76年、周恩来と毛沢東が相次ぎ死亡して鄧小平が実権を握ると、藤野三菱社長は第2次三菱グループ代表団を率いて訪中した。
鄧小平による改革・開放政策が本格化すると、韓国の大手財閥、すなわち、三星グループ、現代グループ、大宇グループなどが競うように中国との関係改善に乗り出した。様々なルートを通じて水面下の動きがあった。
朴正煕大統領のメッセンジャーを自認していた藤野忠次郎は朴正煕・鄧小平のホットライン開設のために尽力した。そのためにパキスタンルートが活用された。パキスタンはソ連を牽制するために中国に接近していたし、中国はインドを牽制するためにパキスタンを必要としていた。そのような関係で、アユブ・カーン政権の国防委員会委員で、国防長官や内務長官を歴任したアプザル・ラマン・カーンが鄧小平と親密な関係にあることに注目し、三菱商事はカーンを顧問に委嘱していた。
この話に深く関わっていたのは、朴大統領と三菱商事の仲介役を務めていた朴斉郁であった。朴斉郁の証言によれば、79年4月末、朴斉郁と三菱商事の関係者がパキスタンを訪問し、アプザル・ラマン・カーンに会って、韓国政府が中国との関係改善を希望していることを中国側に伝達して欲しいと要請した。カーンが訪中し、中国側に伝えたところ、中国側も好意的な反応であった。
これを受けて、同年7月、さらなるアクションとして「中国最高指導者鄧小平とのホットライン開設を望み、その以前にも経済交易を始めたい」という朴大統領の意思を伝達した。同時に経済交流の最初の事業として中国側が必要としている肥料5000トンを無償提供したいと提案した。その後、中国との窓口は香港の費民・太公報社長に指名された。費民は周恩来および鄧小平と親密な関係の人物であった。
当時韓国は、年260万トンの肥料を生産し供給過剰であった。中国は肥料が不足し、日本から尿素肥料を輸入していた。尿素肥料5000トンの無償提供の話に費民は感動する表情であった。費民の斡旋で中国側の受入窓口も決まり、最終輸出先も中国化工進出口総公司に決定した。
韓国政府は秘密裏に尿素肥料輸出のための許可を用意した。そして第3国旅券を持っている中国船員が搭乗した第3国の船舶を韓国の麗水に入港させ、肥料を積載して出港するための具体的な運搬準備を終えていた。
79年10月初め、朴斉郁と三菱商事関係者は再度香港に行き、費民と会って、最終確認をした。費民は、「鄧小平とのホットライン設置と関連した最終決定を通報する日付は次回に知らせる。鄧小平は政府官吏を介入する考えを持っている」と話した。そして朴斉郁が肥料輸出内認可書を差し出すと、費民は「肥料問題は後に回そう」と丁寧に断わった。
二人が帰国したのは10月17日であった。香港訪問の結果報告を聞いた朴大統領は満足していた。しかし、その9日後、朴正煕が側近の中央情報部長・金載圭に射殺される悲劇が起こった。ホットライン開設後、朴正煕・鄧小平会談が準備されていたが、この秘密交渉は朴正煕の急逝によって実現されず、プロジェクトは「幻の計画」に終わった。もしこのプロジェクトが実現されていたならば、韓中国交正常化は早まっていたかも知れない。