小倉紀蔵准教授(韓国哲学)主宰の京都大学大学院韓国・朝鮮学ゼミで「近江商人・三中井百貨店の隆盛をささえた朝鮮の消費社会の検証」をテーマに講演した林廣茂・同志社大学大学院教授。50分の講義、そして活発に展開された博士課程院生たちとの質疑応答や討議を振り返り、文章を寄せていただいた。
京都大大学院の韓国・朝鮮学のゼミで講演した。主宰者は長年の知人である小倉紀蔵准教授(韓国哲学)である。
私の題目は「近江商人・三中井百貨店の隆盛をささえた朝鮮の消費社会の検証」である。
講演の主旨はこうだった。
「昭和7~8年から15~16年にかけて朝鮮経済は好景気にわいていた。日本人と朝鮮人の所得も大きくふえた。勤労者の両者の所得比は、職種にもよるが、大体100対60~80だった。そのためとくに京城(ソウル)の5大百貨店が隆盛した。日本人経営の4百貨店(三越、三(み)中井(なかい)、丁子屋(ちょうじや)、平田)と韓国人経営の和信である。購買力のある日本人と朝鮮人が5大百貨店につめかけ、ほとんど連日満員だったと記録されている。購買客の70%は朝鮮人だった。豊かな消費社会がなりたっていた。当時の京城の人口は90~100万人(そのうち日本人は16万人くらい)。周辺部をあわせて120万人前後だった。彼らが百貨店の客層だった。日本の政治・経済・社会システムや日本人のライフスタイルが朝鮮に移転され、日本人主導の経済活動や消費が行われていた。百貨店ビジネスはその一環である。5大百貨店の大多数の買物客が朝鮮人だった事実は、電気器具や日用雑貨を消費する経済・物質文化はもちろん、ライフスタイルや購買行動の動機などの社会・心理文化の面で、朝鮮社会が日本適応化し、朝鮮人が日本人適応化したことを示している」。
「朝鮮社会や朝鮮人が日本と日本人に適応したというが、強制されたのであり、そうしなければ生きられなかった事実を見落としている。朝鮮人が自発的にそうしたかのような口調が気になる」「京城の百貨店が隆盛していたというが、そこで買い物ができた豊かな朝鮮人はごくわずかだった。大多数の朝鮮人たちは貧困にあえいでいた」。ゼミ生のほとんどは在日韓国・朝鮮人で、韓国からの留学生や研究留学の大学教授も加わっていた。最初の反論は全南大学校のA教授からで、後のそれは博士課程のB君だ。クラス全体の雰囲気から察して、この2点が私の講演に対しての代表的な反論であると感じた。
50分の講演の中では言葉たらずで説明できなかったのだが、私は04年の著作『幻の三中井百貨店』(晩聲社)や05年の論文『日韓歴史共同研究報告書』で、「植民地という強制下での朝鮮と朝鮮人の日本と日本人への適応化だったと検証している」「それでも全ての人々の暮らしが貧困の極みだったのではなかった。京城では日本人経営の4百貨店を中心にしてその近くには本町(現在の忠武路)の日本人商店街があって、500ほどの小売店が軒をつらねていた。最大の商店街として、京城市内外から日本人や朝鮮人をひきつけてにぎわっていた」などと説明した。
良い機会だと思い、『朝鮮日報』(日本語電子版07年5月6日)の拙著への書評を引用して紹介した。「韓国の読者がこの本を一読すると、非常に不愉快な気分にさせられるはずだ。(中略)しかし、『日本の統治に抵抗した朝鮮人らのうち、多くの人々が日常生活では日本のライフスタイルに適応し、自ら収奪の手先と非難した三中井や三越でショッピングを楽しんでいた』と言うくだりは、このまま見過ごすことのできない問題を抱えている。(中略)。そうした『日常』の部分まで(林加筆)きちんと検証できなかった韓国近現代歴史学のすき間にこの本は位置している」
議論が今日の日韓関係に発展した。日本人が手前勝手に朝鮮に移転した「百貨店経営のノウハウ、そして商業のほかにも製造業の技術や経営ノウハウ」が、解放後の韓国人にひき継がれた。そのうえに国交回復後、日本人が協力して先端技術をつぎ木した。歴史はこのように不幸な時代から友好時代の今日まで連綿とつながっている。
今の日本と韓国はアジアの2大先進国で、「経済や経営は勿論のこと、社会や文化のありように至るまで、互いの自由意志で学び学ばれるベンチマークの関係、そして相手にだけは負けられないライバル関係になっている」。私自身が、心理的に両国に片足ずつをすえて、学び学ばれる両国ビジネスの仲介者として機能することをライフワークの一つにしてきた。両国関係は今が「史上最も良くて最も生産的」だと思う。
反論と再反論が行きかった前半は多少ヒートアップもしたが、やがて「私が言葉足らずだった」「私が韓国的反応をしてしまった」とお互いに相手を思いやる発言が出た。「日本と韓国の知識人が穏やかに歴史を語る時代がやっと来た」と小倉先生が発言した。