韓日間の経済交流が活性化する中、海を越えて韓国企業で働く日本人技術者やビジネスマンが増えている。日本と似て非なる韓国社会や企業文化に接し、彼らは何を感じ、隣国をどう評価しているのだろうか。本田技術研究所のチーフエンジニアを経て2004年にサムスンSDI中央研究所の常務に就任した佐藤登さんの異文化体験記をおとどけする。
2004年9月から韓国で仕事と生活を始めたので丁度5年が経過した。韓国文化や慣習にもずいぶん慣れ親しんできた。振り返れば社会人のスタートを切ったホンダに入社してから32年になる。そこから現在に至るまで、喜びと悩み、満足と不満、自信と葛藤など数多くの実体験を踏んできた。
いずれの場面でも考え通してきた事は、それぞれの状況下に置かれた時々の最大限の努力と実行、そしてその先にある自己実現である。その姿勢は今後も変わることはないが、時に、その行く手を阻む障害が生じることも少なからずある。
ホンダに入社した1978年には研究職を希望していたが、実際の配属では生産技術分野であって相当気持ちが落ち込んだものである。
しかしそこで考えたものは、「この分野でも研究所以上の研究もできないことではないから、研究所以上に良い研究成果を出して製品に反映し会社への貢献を果たそう」と言う気持ちの切り替えであった。
しかしそこに立ちはだかった大きな壁が先輩諸氏のKKD、すなわち勘(K)と経験(K)と度胸(D)だったので驚いた。論理よりKKDが重要と言われ愕然としたが、それでもこのKKDを超える論理を打ち立てようと奮闘した。
果たして、唱えて実証した自説も社内や業界に浸透し、結局は製品に反映される技術となって実現を果たすことができた。その社内の研究成果によって工学博士の学位を取得したが、信念をもって向かうことの意義を確認できた出来事であった。ここで培われた自説は学会や業界で今も活用されている。
その後、1990年に研究所に異動してからは、米国カリフォルニア州から発令されたZEV(Zero Emission Vehicle)規制に適合させるために電気自動車とその電池開発に着手し、自動車の新エネルギーである電池技術の責任者を任された。
次のハイブリッド自動車においては、自らが唱えたリチウムイオン電池の可能性を示唆し、1998年にプロジェクトを発足させ開発に勤しんだが、その後に会社方針が電池よりもキャパシタと言われる物理電池に大きくシフトした。その結果、リチウムイオン電池研究開発者は責任者である私と部下のふたりまで減り、大勢がキャパシタ開発と事業化へ携わった。
このような背景で、考え方の違いによりホンダから大学教授の道を探しつつ悶々としていたところ、サムスンから移籍の話を受け3カ月ほど考えた末に決断したのが5年前だった。
時が過ぎ、ホンダではリチウムイオン電池とキャパシタのエネルギー論争にも終止符が打たれたのは2006年ころであった。
結局、ホンダのキャパシタ事業は原理的な限界から開発中止に追い込まれ、現在は電池一色に染まると共に、リチウムイオン電池への期待からGSユアサとの合弁会社を形成するに至った。当時の電池の正当性が立証されるに至ったことになる
すなわち自分自身が唱えてきた説と洞察の方向へ物事が進んだことは、その前の自動車車体材料でのKKDの論争と類似した部分が多分にあったが、ここで得た自信は自らの洞察が正しかったという事実への帰趨そのものである。
かような経験、すなわちホンダでの自説を唱えることによる葛藤、しかしそれは正当性を立証したのだが、信念とはこのように時として論争を招き、そして孤立無援の境地に陥ることもあること、しかし信念に基いた行動をとることで、それは他人との違いを創り上げるものであること、技術は正しい方向にしか結果的には道が開けないこと、あるいは進んで行った道が結果的に正しい方向であったことを自ら経験したことになる。
ホンダの創業者である本田宗一郎は生前の書籍で多くの名言を残した。「能ある鷹は爪を出せ」「会社のために働くな、自分のために働け」「考えて貫けば、たとえホンダでうまくいかなくても外から声がかかる」。この名言の意味を正に体得し貫いてきた実感がある。
サムスンに移籍してもこれまでの考えに大きな差異はない。研究開発戦略の立場からは事業性の可能性有無に関して原理的、論理的、客観的な見方をしてきた。中には研究テーマの中止の提案、逆に将来、事業性の意味と可能性の大きいテーマに着手する方向性の示唆と実行を手がけてきた。これも数年後には判断の妥当性が証明されるだろうが、興味深いところである。
サムスンで6年目を迎えた現在、これまでの韓国での拠点を東京に移し活動することになった。六本木にある日本サムスンに逆駐在の形で席を構えたが、日本との連携や戦略立案に従事する。
グローバル企業であるホンダとサムスンを経験していることで視界が広くなっていることを実感しつつ、今後のグローバル企業の責任と発展の行く末を描くシナリオ創りは大きな意味があるものと感じている。