韓国政府の念願の総合製鉄所の設立はいかにして成し遂げられたのか。1973年、日韓基本条約に伴う対日請求権資金などによる資本導入と、 八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管の3社からの技術導入により、国営の浦項総合製鉄所を建設するまでの朴泰俊氏の奔走ぶりを、永野慎一郎・大東文化大学教授に寄稿していただいた。
浦項綜合製鉄創業者・初代社長朴泰俊は、朴正煕がもっとも信頼している部下であった。朴正煕は軍事クーデターの時、朴泰俊を軍事革命委員会名簿にも入れないほど大事にしていた。朴正煕は軍事クーデターに成功すると、すぐ朴泰俊を呼び寄せて秘書室長に任命した。朴正煕は国家再建最高会議議長に就任し、名実共に最高指導者になると、朴泰俊を国家再建最高会議議長秘書室長兼同財政経済委員会商工担当最高委員に任命した。
民政移管に伴って、朴正煕は大統領に就任した。就任直後、朴正煕は朴泰俊を呼び、自民党副総裁大野伴睦からの親書を見せた。内容は、韓国が緊急に取り組むべきことは、日韓国交正常化を実現し、対日請求権資金を受け入れて経済開発5カ年計画の資金として活用すべきであるということであった。朴正煕も朴泰俊もこの内容には同感であった。大野は大統領特使の派遣を要請した。特使の条件としては、大統領がもっとも信頼する人物、通訳なしに自由に対話ができる人物、可能であれば日本で学校に通った事のある人物を挙げた。
朴泰俊は朴正煕から特使に指名され、大統領特使として、1964年1月初旬、羽田空港に到着した。1964年初頭の日本は東京オリンピックの準備に忙しい時期であった。東京都心から羽田空港まで東洋初のモノレールが敷かれ、東京・大阪間に時速250㌔㍍の新幹線工事が進行中であった。新生日本の急激な発展を目の辺りにして驚くばかりであった。自分に与えられた任務の重大さを改めて考えさせられた。
朴泰俊は、安岡正篤の紹介で多数の政財界の指導者たちと会い、意見を交換した。また、日本各地を巡回しながら、工業化が進行している日本の姿を直接観ることができた。
朴泰俊に新しくまわって来た役割は国営企業大韓重石社長のポストであった。朴正煕は朴泰俊を権力闘争の激しい政界で重用せず、経済界で活躍することを期待した。大韓重石の前歴は、1934年に慶尚北道達城鉱山と江原道上東鉱山が合併した小林鉱業株式会社で、良質のタングステンを生産していた。1949年10月から商工部直轄の国営企業として、大韓重石鉱業株式会社となった。大韓重石は慢性的な赤字経営であったが、経営が軌道に乗った頃、朴正煕と朴泰俊の間で製鉄所問題が話し合われた。
「閣下、現代産業の羽は油と鉄です。油はどうすることもできないが、鉄はわれわれが作れると思います」
「可能かな?製鉄所さえあれば後進性を早く脱皮できると思うが、国運が別にあるのかな。日本は世界をひっくり返すほどの戦争をやってからも戦後あれだけ早く再建できた。日本はもうすでに相当の鉄を生産している。それであのように素晴らしい工業化を達成している。戦後の日本で製鉄所を効率的に建設した人は誰か知っているか?」
「戦後の製鉄所としては川崎製鉄所があります。西山弥太郎社長が大変な執念でその製鉄所を建設したと聞いています」
「西山社長を招請できないか?」
「西山社長に諮問を要請することは難しくないと思います。しかし、諮問を要請する前に、われわれの製鉄所建設計画がうまくいかない原因が何であるかを究明すべきではないでしょうか。鉄鋼業は巨額の固定資本と長期投資を必要としますが、われわれには資本がありません。先進国は援助を渋っています。建設費は莫大であるかもしれませんが、一貫製鉄所を建設した方が将来性はあります」
1965年6月、西山弥太郎川崎製鉄社長は訪韓し、青瓦台で朴正熙大統領に会った後、朴泰俊の案内で製鉄所の候補地数ヶ所を視察した。
「韓国が後進国から脱皮しようとするならば、必ず製鉄所を建設しなければなりません。現在の所得水準では難関が多いと思われるが、何としても製鉄産業を立ち上げなければなりません。しかし、国内の鉄鉱石が不足しているので、外国からの輸送船が自由に出入りできる港に建設した方が良い。韓国政府は30万㌧から始めるという案だが、これからは50万㌧から100万㌧の規模が世界の趨勢です」
報告を受けた朴正煕は、朴泰俊に次の課題として総合製鉄所建設の役割を与えた。韓国政府は総合製鉄建設について日本政府および鉄鋼業界にも協力を求めた。1965年9月には韓国政府の要請に応じて、日本鉄鋼連盟、海外技術協力事業団、鉄鋼大手6社の代表で構成された日本鉄鋼調査団が訪韓し、3週間にわたって現地調査を行なった。
韓国政府は、総合製鉄所設立に当たって日本の支援よりも欧米諸国の支援を期待した。しかし、世界銀行や輸出入銀行は経済性がないという判断で財政支援を断った経緯がある。
第2次世界大戦後、発展途上国の上位国は経済自立をめざして総合製鉄建設を試みたが、技術、経営上の理由、または規模面で赤字が重なり失敗した。当時の世界銀行総裁ユージン・ブラックがIMF年次大会において「発展途上国には3つの神話がある。第1に、高速道路の建設、第2に、総合製鉄の建設、第3に、国家元首の記念碑の建立である」と述べた言葉には、発展途上国における非経済性と浪費について指摘したものであった。
その段階で韓国政府は浦項綜合製鉄を日本との協力によって建設することを決定すると共に、経済性問題の解決のために次のような方針を決定した。
①総合製鉄の規模を100万㌧とする。
②所要外資は韓日国交正常化の時、両国間で合意された無償・有償請求権資金の相当部分を総合製鉄建設に充てることで金利負担を大幅減少させる。
③工場建設に必要な港湾、埠頭、土木、浚渫、道路、鉄道などの建設は国家が負担することで総合製鉄の建設費を大幅削減する。
④鉄鋼工業育成法を制定して租税および関税の減免、特別償却、公共料金の割引および財政資金を支援することによって操業後の採算性を確保する。
このような方針転換の背後には、朴泰俊の働きがあった。対日請求権資金の未使用分を転用するという朴泰俊の「ハワイ構想」から始まったものだ。対日請求権資金は主として農林水産部門に使用されることになっていた。当時の韓国国会議員の80%が農家出身であり、農業振興政策を強力に推進していたことを考えれば、転用は不可能に近い問題であった。朴泰俊は農業振興のためにも総合製鉄建設はぜひ必要であると、朴正熙を説得した。
しかし、用途変更のためには日本側との面倒な手続が必要であった。韓国の総合製鉄建設に対しては日本の政財界には否定的な意見が強かった。用途変更だけでなく、技術面での日本側の協力が必要であった。安岡正篤の根回しもあって、経済界、特に鉄鋼連盟の協力を取り付けた。朴泰俊は岸信介前首相を始め、政界関係者にも協力を求めた。大平正芳通産相は慎重論であった。大平の経済開発に関する論理にはそれなりに筋が通っていた。
「一次産業で食糧を自給自足するように支援することが原則ではないでしょうか。そうすれば自然に市場が形成されるし、製鉄所はその後にする事業ではありませんか。今は農村に優先的に投資する時です。農機具開発、肥料工場などやるべきことが山ほどあるではありませんか。それなのに採算性がない製鉄所建設を無理にやる必要があるでしょうか」
「おっしゃったことには妥当性があります。しかし、日本が日清戦争後、軍備の基礎をつくるために12万㌧規模の八幡製鉄を建設する時、採算性を考えたでしょうか。韓国は現在休戦状態です。北側は軍備拡張を継続しているので、われわれの自主国防は必然性があります。採算性問題ではなく、防衛問題としても優先すべき事業が製鉄所建設です。日本はGDP50~60㌦の時から製鉄所を始めたのではなかったでしょうか。われわれは現在200㌦なのでやれないことではないと思います」
最終的には大平通産相も理解を示した。1969年8月、日本鉄鋼業界8社で構成された浦項綜合製鉄建設協議会が発足し、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管3社の社長名で「浦項綜合製鉄計画の検討に関する件」についての書簡を浦項製鉄に送った。日本政府は韓国の総合製鉄建設に協力することを閣議決定し、8月26日から開かれた韓日閣僚会議において浦項綜合建設についての原則的な合意がなされ、同年12月に日韓政府間で基本協定が締結された。
韓国政府の念願の総合製鉄所の設立は朴泰俊、安岡正篤、稲山嘉寛・八幡製鉄社長のような民間人たちの協力の賜物であった。浦項綜合製鉄建設事業に使用された対日請求権資金は無償資金3億㌦のうち3080万㌦、有償資金2億㌦のうち8868万㌦であった。
資金問題は解決されたとしても、ゼロからスタートした工場建設のためには多くの機資材を日本から購入しなければならなかった。そこには縦割行政の弊害、政府与党の実力者からのリベート要求や政治献金の強要もあった。これに悩まされた朴泰俊は朴正熙大統領に、政界関係者の圧力の排除、請求権資金の運用手続の簡素化、設備供給者選定時の裁量権の付与、随時契約時の政府保証などを建議した。大統領はそれを認めた。