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2010/02/26

<オピニオン>韓国経済講座 第114回                                                        アジア経済文化研究所 笠井 信幸 理事

  • アジア経済文化研究所 笠井 信幸 理事

    かさい・のぶゆき 1948年、神奈川県生まれ。国際開発センター研究員、ソウル大学経済研究所客員教授、秀明大学大学院教授を経てアジア経済文化研究所理事・首席研究員。

 1970年代、第3次経済開発5カ年計画をスタートさせ、繊維輸出や重化学工業の国産化を開始した韓国。当時、日本企業の韓国進出ブームで川崎電線との合弁、韓国KDK(川崎電線コリア)を創立、後に大統領や政府要人に政策提言を行った金亨洧氏が逝去された。同氏と当時の韓国経済について笠井信幸・アジア経済文化研究所理事に文章を寄せていただいた。

 「笠井さん、パンツ一丁で家の中をうろつかないで下さいよ」。1986年8月、ソウルプラザホテルのコーヒーショップでの金亨洧(キム・ヒョンユ)氏の唯一の条件だった。その彼が先日逝去された。享年90歳だった。金さんは21年生まれ、咸鏡南道(ハムギョンナムド)北東部の北青(プッチョン)郡出身。北青郡は咸鏡山脈に抱かれた山の多い地形で、徳城(トクソン)郡に源を発する南大(ナムデ)川が南北に貫く狭い平野の流域の中心にある。米、大豆、麦、果実等を産出し、とくに林檎の産地として知られている。ちなみに同郷出身者では日韓国交正常化を成し遂げた故李東元(イ・ドンウォン)外務大臣がいる。

 金さんは朝鮮戦争時南におり、国土分断で戻れなくなりそのまま韓国に残った。48年に結婚した崔貞子さんと荒廃した韓国でさまざまな仕事をした。当初運送会社のソウル丸星で勤務した後、貿易会社の東光株式会社に勤務し、日本からブラザーミシンの輸入業務に携わっていた。そうした金亨洧さんに転機がおとずれたのは、74年の韓国KDK(川崎電線コリア)株式会社の創設であった。日本の川崎電線は56年創業で、日本で初めてUL(アメリカの規格電線)を取得した企業である。同社の韓国進出に携わり川崎電線との合弁で韓国KDK株式会社を創立した。

 当時、韓国は第3次経済開発5カ年計画(72年~76年)をスタートさせ、繊維など労働集約製品の輸出と73年の重化学工業化宣言によって重工業の国産化を開始した。だが、この時期国内市場では60年代に引き続き15%前後の物不足インフレが続いており、国民生活は生活関連品目の物価上昇に苦しんでいた。それでも73年3月3日に韓国放送公社(KBS)が創立され公共放送がスタートしたり、家電製品市場が拡大するなど電気・電子製品需要が高まっていた。また機械装備や加工機械の生産財生産の増加により機械用電線などの電気装備品需要も増大していた。こうした製造業の生産増大に日本企業の進出も増えていた。第2次5カ年計画期(67年~71年)の外国人投資の中で、日本企業はわずか23%であったものが第3次計画期には67%にまで増加し日本企業の韓国進出ブームとなった。この背景には、先進技術と資本を導入する手段の一つとして64年に「輸出産業工業団地開発助成法」制定により、ソウルの南西部にある九老(クロ)区、加里峰(カリボン)洞と衿川(クムチョン)区、加山洞(カサン)地域60万坪の土地に韓国初の工業団地が造成した。この九老工団は建設当初から指導してきた在日韓国人企業を中心に日本企業の進出拠点となり70~80年代、繊維・縫製産業など労働集約的製造業のメッカとして、当時の産業発展の中心的な役割を果たした。川崎電線の進出もこうしたブームの中で行われたものである。韓国KDKは、この九老工団に設立され、国内需要が伸び続ける電線を中心に順調に成長した。当時多くの労働者が低賃金、過酷な労働条件で働かざるを得ない環境の中にあった。その様子は89年作成・上映された朴鐘元監督の『九老アリラン』や朴敏那著、大畑龍次監修『鉄条網に咲いたツルバラー韓国女性八人のライフストーリー』(同時代社、2007年)等で紹介されている。金さんは、社員旅行や食事会などで家族的な経営と労使関係を目指しており、その様子がマスコミにも何回か取り上げられていた。また、彼は「一日社長制度」をという当時ではとうてい考えにくい制度を取り入れ、受付嬢に至るまで全社員に日替わりで社長職を与えた。しかし彼のこうした努力も85年4月16日の大宇自動車ストライキとこれに続く6月24日の大宇アパレルのストライキがソウル九老工団労働者の同盟ストライキへと発展するに至り、労働組合の突き上げに合うようになった。

 工団自体の役割も、全国に新たに建設された工業地域と都市化の進展により、次第に開発初期の役割を終えていった。80年代後半にはソウル市の「ソウル開発抑制政策」、「都心工場の地方移転」などの政策が打ち出され、九老工団に入居していた衣類業者が自社の製造工場を京畿道やその他の地方に移転していった。90年代に入り韓国KDKの経営も思うに任せられなくなり金さんはその所有権を他の企業に売り渡してしまった。その後「経営工夫會」を立ち上げた彼は、自分の経験を後人に伝えるのみならず、大統領はじめ政府要人に様々な政策提言を行ってきた。

 ところで、筆者がソウル大学経済研究所に勤務したとき、金さんの娘さんの嫁ぎ先に間借りさせてくれた。その面接で「パンツ一丁禁止令」を言い渡されたのである。以来親子のような関係を続け、ある時家に遊びに行ったときパンツ一丁でニコニコと迎えてくれたことは懐かしい思い出である。この「講座」を執筆することが決まってからずっと韓国の新聞の切り抜きを送り続けてくれた。この場を借りて謝意を表したい。しかし、それ以上に成長初期の韓国経済を彼のような強い企業家が支えていた事実はいつまでも我々の心に残り続けるであろう。ご冥福をお祈りしたい。


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