◆ソウル五輪のメーン・スタジアム、”漢江の奇跡”の象徴◆
2018年の冬季五輪の開催地が平昌に決まった。韓国での五輪開催は88年のソウル五輪以来、30年ぶりのことだが、ソウル五輪の関連施設で現在なお、ソウル市民に親しまれているものといえば、蚕室にある“オリンピック・スタジアム”こと蚕室総合運動場とオリンピック公園であろう。このうち、総合運動場は、オリンピックのメーン・スタジアムとして使われ、“オリンピック・スタジアム”と呼ばれていることから、ソウル五輪のために建設されたものと思われがちだが、運動場の建設が始まった77年の時点では、ソウルでの五輪開催が実現すると考えていた韓国国民は、おそらく皆無に等しかったろう。
むしろ、75年完成の汝矣島の国会議事堂や78年完成の総合展示場としてのKOEX(現COEX)などと同様、“漢江の奇跡”を踏まえたソウルの大規模再開発の一環として、それまでの東大門運動場に代わる大型屋外競技場として企画・建設されたと見る方が妥当だと思う。
蚕室総合運動場の設計は、金壽根が担当した。金は31年、現在は北朝鮮領内にある清津の出身で、解放後、ソウル大学に進学したものの、韓国戦争で中退を余儀なくされ、日本に渡って東京芸術大学、東京大学で学んだ。東大修士課程の院生だった59年には国会議事堂建設設計のコンペに当選したが、61年の“5・16革命”で計画が流れてしまったため、彼の設計した議事堂が日の目を見ることはなかった。61年の帰国後は、金壽根建築研究所(現・空間社) を創設。以後、86年に亡くなるまで、韓国の現代建築を代表する建築家として活躍した。蚕室総合運動場の建設が始まる前年の76年には韓国文化勲章を受賞している。
さて、80年に発足した全斗煥政権は、政治的・社会的混乱と、それに伴う経済の低迷を一挙に解決するための秘策として、88年のソウル五輪招致に心血を注いだ。その結果、81年9月30日に西ドイツ(当時)のバーデンバーデンで開催されたIOC総会では、決戦投票の末、52対27でソウルが最有力候補と目されていた名古屋を下して五輪の開催地となり、建設中だった運動場がオリンピックのメーン・スタジアムとして使われることになったのである。
運動場の完成は84年のことで、9月30日にはそのこけら落としのイベントとしてサッカーの日韓戦が行われた。その後、運動場は、86年にアジア競技大会で使われ、88年のソウル五輪を迎えた。なお、五輪では陸上競技とサッカー決勝、馬術競技個人障害馬術決勝の会場となっている。
運動場でのイベント風景を描く切手としては、86年の「第10回アジア競技大会成功」と88年の「ソウル五輪成功」などがある。このうち、「ソウル五輪成功」の記念切手は、五輪開会式の模様が取り上げられている。
ソウル五輪の開会式は、88年9月17日に行われ、ハイライトは、孫基禎による聖火リレーだった。
孫は、南昇龍とともに日本統治時代の1936年にベルリン五輪のマラソン代表として出場。孫が金メダル、南が銅メダルという好成績を残したが、当時の朝鮮は日本の植民地であり、孫と南は“日本代表”としての出場であったため、表彰台では彼らの望む太極旗ではなく、日章旗を見上げることになった。このため、孫は悲劇の英雄として、ベルリンでの金メダル獲得から約半世紀後、祖国で開催されたオリンピックの聖火ランナーとしてトラックを半周した後、聖火を若い選手に渡して退場した。
ところが、その選手が聖火台に聖火を点火した瞬間、聖火台の縁にとまって羽を休めていた鳩の群が一瞬にして炎に巻き込まれて一部が焼け死ぬというハプニングが発生。平和のシンボルが聖火で丸焼けになるとは何事かという韓国国民のクレームが相次いそうだが、当時、テレビでこの場面を見ていた僕も大いに驚いたことは忘れられない。
なお、切手では、当然のことながら、聖火に焼かれている鳩の姿は分からないよう、トリミング処理が施されている。