◆静かに推進する「北朝鮮式改革・開放」の可能性◆
北朝鮮経済についてさらに詳細に考察する。北朝鮮経済の歴史から振り返って見る。北朝鮮経済は、1953年7月韓国戦争の終結以降「自立的民族経済建設路線」のスローガンを掲げる一方、ソ連や中国の支援を受けるという矛盾した経済政策であったが、一定の経済発展を遂げた。この北朝鮮の経済成長は70年まで続き、一時は韓国GDPを上回ったとも言われている。しかしながら70年以降は、経済政策の矛盾や社会主義・共産主義の衰退など国際情勢の変化により悪化し始め、80年代からソ連の物資に、90年代からは中国の物資に大きく頼ることになった。自立経済とは、真逆の中ソに過剰に依存する経済体質となった。特に91年ソ連の崩壊により社会主義市場が機能しなくなるや否や、経済構造問題が露呈された。
そこで北朝鮮は、90年以降相次いで思い切った経済改革に乗り出した。92年合作法、外国人投資法、外国人企業法の制定。93年自由経済貿易地帯法(羅津港、先鋒港、清津港)の制定。94年合営法の制定。94年は7月8日に金日成主席が死去したことや約100万人に及ぶ餓死者が発生したこともあり、この時期から経済改革に拍車がかかったと言える。95年には、北朝鮮初の経済特区である「羅先経済特区」の本格的な開発が始まった。また、資本主義市場経済原理の研究と教育も開始された。
筆者は、既に述べたように95年~97年の3年間、「羅先経済特区」を管理・運営する幹部人材育成のため金日成総合大学経済学部及び国家社会科学院で資本主義経済の招聘講師として、資本主義経済のテキスト作成や講義など研究と教育に直接関わった。90年代は、外貨獲得のため労働者輸出。2002年開城工業地区法、金剛山観光地区法の制定。02年7月北朝鮮経済改革(経済管理改善措置)の実施。09年デノミの実施。例えば1万㌆の単位を100㌆に切り下げ、新100㌆が発行された。
11年12月17日に金正日総書記が死去した後は、金正恩第一書記が12年から「経済建設と核武力建設の併進路線」を推し進めている。金正恩第一書記が、同年「6・28方針」を打ち出し、「社会主義企業責任管理制」と「朝鮮式経済管理方法」の方向性が提示された。「社会主義企業責任管理制」とは、協同農場での収穫物の分配方法や工場・企業所などでの独自権限を拡大すること。「朝鮮式経済管理方法」とは、科学技術と生産・経営管理を組み合わせ、科学技術の力によって経済を発展させていくという管理方法である。
また、同年「12・1措置」により企業所での独立採算制の導入、13年「3・1措置」により外貨口座の開設や変動為替制の適用などの指示が下された。14年「5・30談話」では、北朝鮮全国の工場や企業所などに全面的な自律経営権を付与し、生産や分配の方法、貿易を行う権限までも与えた。
金正恩政権の経済外交戦略は、安全保障は米国と中国とロシアの狭間で最大限確保、経済は韓国と中国の狭間で最大限確保することである。この狙いは、これまでの対米安保依存、対韓経済依存、対中安保・経済依存からの脱皮である。金正恩政権は、16年9月の5度目の核実験により対米自信をつけた。また、韓国の強硬路線による経済支援がなくてもやれるという対韓自信をつけた。
さらに、対中自信もつけている。崔竜海・人民軍総政治局長(当時)を中国に特使として派遣する一方、中国と太いパイプを持っていた張成沢を処刑し、「仲良くするならしろ、無視するならしろ」、すなわち「対話か、対決かは中国が決めろ」という強気の姿勢を示している。
北朝鮮経済は、果たしてこの経済外交戦略が功を奏し、改善されているのだろうか。北朝鮮経済の現状を「相対的な好転論」と「依然とした停滞・低迷論」の2つの学説に基づいて考察する。「相対的な好転論」は、12年金正恩政権発足後から14年まで、北朝鮮経済は微弱ながら低成長を維持したと見ている。某研究者は、北朝鮮は市場化が進んでいると評価しており、その影響で同時期に北朝鮮経済が相対的に好転した。物価と為替は、依然として安定している。また、
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