山梨県の山の中に一風変わった一角がある。桧(ひのき)の林立する広大な庭に韓国の昔ながらの瓶(かめ)がそこかしこと置かれているのだ。その数200以上になる。高さ80センチほどで、胸回りは1㍍をはるかに超すかなり大きな瓶がずらっと並ぶ姿は壮観であり、韓国文化の息吹が感じられるなんとも不思議な空間だ。それにしても、こんな山奥になんでこんなにたくさんの瓶があるのか。瓶を収集、このような場をつくった在日の関勇・貞子夫妻は、「日韓文化交流のささやかな場になれば」と語っているが、「祖国にいつも抱かれたい」という胸の内に込められた思いがあった。
甲府駅から車でおよそ50分。標高800㍍の山の中、江戸時代に建てられたといわれる築150年ほどの家屋に関さん夫妻は住んでいる。聞けば、関勇さんは、「いろいろなことがあった。風来坊のような人生を歩んできたが、ここを終(つい)の住処と考えている」と語った。
まず勇さんの父親の話をする必要がありそうだ。父は解放後の51年に日本人の養子となって関姓を名乗るが、本名は呉貴星。岡山の有力在日経済人で、社会主義祖国を信じて北朝鮮帰国事業にも先頭に立って進めたが、2度にわる北朝鮮訪問の体験をもとに「私の目にうつった祖国の姿、その中にうごめく人民大衆の苦しみなどは私を完全に失望させた」として北朝鮮の深層を暴露した「楽園の夢破れて」を出版した。もう40年前のことだ(亜紀書房から復刻版)。
そんな父のもとで育った勇さんは、かつての学生運動の闘士でもあり、60年安保反対運動の先頭に立ち、運動仲間からは「突撃隊長」と頼りにされた。父と対立、家出をして転々とした時代もあった。国籍は日本でも民族心は片時も忘れたときはなく、それは妻の貞子さんも同様だ。
そんな2人がこの地に住み着いたのは10年ほど前から。澄んだ空気と静寂だけの草ぼうぼうの林がみるみる変わって行った。「毎朝、刈り込みをしていた。いまは苔がきれいに生え、絨毯のようなクッションになっている」と近所の人は話す。そして、2年ほど前からキムチなどを貯蔵する韓国の瓶の収集を始めた。趣味が高じた面もあろうが、「私たちは民族の子として生まれた。言葉もあまりできないし民族に接する機会も少ないが、祖国・民族にいつも抱かれていたいという気持ちはとても強い。瓶はその具体的な表現かも知れない」という。
最近、勇さんの還暦の集いをその庭で開き、「インタナショナル」の曲が流れる中、学生運動時代の仲間ら150人が参加した。夫妻はパジ・チョゴリ、チマチョゴリ姿。折しも前夜からの台風が抜けたばかり。「いつも隊列の先頭にいた嵐を呼ぶ男」だという友人の言葉が拍手を呼んだ。金福実さん率いる国楽演奏に聞き入る地元の人は、「初めて来たが、こんな山奥にも日韓友好の場があるのはいいね」と喜んでいた。
富士山もはっきり眺望できるなどロケーションは最高だ。韓国の古瓶は倉庫にも100以上あるが、もっと増やしたいという。希望すれば販売もする。実際、「花を生けるのに使いたい」と数個買った沖縄から訪れた人もいた。訪れる人には誰にでも開放している。一種不思議な雰囲気の中、瓶をみながら韓国的情緒に浸れば、しばし現実のうさも忘れるだろう。