ここから本文です

2001/08/10

<在日社会>解放56周年在日はいま 在日の原点、探りたい

 日本による植民地支配からの解放を迎えた1945年8月15日。毎年、光復節(解放記念日)の記念行事が行われてきた。戦後56年経ち、在日はこの日をどう受けとめているのだろうか。


村中が歓喜のうず 高麗長寿会会長 盧垠氏

 故郷である慶尚道の小さな村で教員をしていて、解放の日を迎えた。その日、村人全員が歓喜にあふれ、貧しい生活の中でも酒や食べ物を出し合って、飲んで踊ったことが忘れられない。
 解放後は独立運動を闘った人が政権につくと思ったが、それどころか祖国は38度線で線引きされ、数年も経たないうちに親日分子が復権し要職に付いていった。何のための解放かと地団太踏んだものだ。その後、父が48年の人民抗争に加わったため日本にともに亡命、そのまま半世紀が過ぎた。毎年8月15日を迎えるたびに、一日も早い統一を願う気持ちがあふれた。
 昨年の南北頂上会談の成功を受けて半世紀ぶりに故郷を訪れ、96歳になる母や弟とも再会することが出来た。村人が暖かく出迎えてくれたことも忘れられない。南北関係はいま停滞しているが、一歩一歩統一への歩みを進めてほしい。


特別な日の記憶  作家 朴慶南氏

 私は鳥取出身で在日の居住者は少なかったが、それでも光復節を祝った記憶はある。パリロ(8・15)という言葉が記憶にインプットされている。
 2世なのでもちろん実感はなかったが、父から植民地時代の民族差別などの苦労や解放の日の喜びをよく聞かされて育ったので、特別な日という思いはあった。
 大学に入って民族団体の集まりに出てから歴史などを勉強し、8月15日の記念行事にも出席するようになってから、身近な存在としてパリロを受けとめられるようになったと思う。
 いまの私にとってのパリロは、在日の過去と現在を受け継ぎ、そして子供たちに未来を託す立場としての決意を新たにする日になっている。また日本の人に対して、8月15日の意味を伝える使命感を確認する日にもなっている。今後もそれを引き受けて生きていき


真の韓日友好を  映画監督 李相日氏

 民族学校に通ったので光復節の記念行事に出たことはあるが、3世の立場では特に感慨はないというのが正直なところだ。
 昨年、たまたま撮影の仕事があり韓国で8月15日を迎えた。その時には何ともいえない気分になったのを覚えている。
 いま韓日関係は小泉首相の靖国神社参拝、歴史教科書問題で揺れているが、そちらのほうが関心がある。
 膿を隠したまま2002年ワールドカップ(W杯)を迎えるよりも、問題点が噴出して、それについての話し合いを進めながらW杯を迎えたほうが、真の韓日友好関係が作れるのではないか。
 南北分断を描いた韓国映画『JSA』が日本でヒットしたが、日本の人に南北分断に関心を持ってもらうきっかけの日にもしたいと思う。


歴史認識の一致を  ふれあい館館長 ペ重度氏

 在日にとっての8・15もそうだが、日本人にとっての8・15を日本社会はどれだけ伝えてきてのだろうか。広島、長崎の原爆被害があり、さの延長線上に8・15を迎えているが、それでは被害者意識だけの8・15になってしまう。
 加害の歴史をきちんと伝えないから、今回の教科書問題が起きている。加害の側面と被害の側面を正しく認識し、子供たちに伝えていくことが、韓国と日本、在日社会の共生の道になるはずだ。


子供に歴史伝える  行政書士 李怜香氏

 在日が植民地支配の産物であることは何となく知っていたが、終戦記念日と光復節の意味の違いを理解したのは、大学に入ってからだった。
 私は在日3世だが、歴史は正しく知っておきたいし、母親として自分の子供にも在日の歴史を伝えておきたい。歴史を知らないと、自己のアイデンティティーも確立出来ないと思うからだ。