15日、90歳で他界した孫基禎氏は、暗鬱とした韓国現代史20世紀前半の韓民族に最も大きな希望を与えてくれた〝民族の英雄〟だった。また孫氏はマラソンで初めて2時間30分の壁を破った世界的な英雄でもあり、韓国のスポーツ選手たちの精神的支柱として、韓国民の愛と尊敬を一身に受けた。
孫基禎氏は1912年5月29日、平安北道新義州で、孫仁硯氏の3男1女の末っ子として生まれた。
マラソン走者としての素質は子どもの頃から現れ、若竹普通小学校6年生のとき、新義州と満州安東間5000㍍を競う安義陸上競技大会で成人選手らを抑え優勝して周囲を驚嘆させた。
1931年に新義州代表として出場したソウル・永登浦短縮マラソン大会では2位に入賞した。1935年日本で行われたベルリン五輪最終予選競技に優勝した孫氏は、昨年2月に死去した故・南昇龍氏とともに代表に選抜された。
翌1936年8月9日、ベルリン五輪マラソンで2時間29分19秒の五輪最高記録で優勝、盟友の故・南氏も銅メダルを獲得する快挙で、亡国に苦難する韓国人に自尊心を植え付けた。
このとき2人の若者は、表彰台の上で日章旗が上げられるのを直視できず、君が代を聞きながらうつむかざるを得なかった。
その後、孫氏は1947年に徐潤福、1950年に咸基鎔がボストンマラソンを制覇したときのマラソン代表チーム監督をはじめ、大韓体育会副会長(1948年)、大韓陸上連盟会長(1963年)、バンコクアジア大会選手団長(1966年)、大韓オリンピック委員会(KOC)常任委員(1966年)などを務め、長年にわたって韓国のスポーツ発展に貢献。
1981年9月にはスイス・バーデンバーデンで、ソウル五輪誘致の使節団の一員として活躍した。けれども孫氏は、太極旗を胸に付けてオリンピックの金メダルを取ることができなかったという心の痛みを拭い去ることが出来ずにいた。
1992年バルセロナ五輪で〝モンジュイックの英雄〟となった黄永祚・国民体育振興公団マラソン監督は、「私が優勝したら、『これで私の恨(ハン)が晴らされた』と言って私を抱きしめて涙を流した姿を今でも鮮明に覚えている」と孫さんとの思い出を語った。
17日、ソウルのサムスンソウル病院でKOC葬として行われた葬儀・告別式では、李衍沢KOC委員長が弔辞の中で、「熱い民族愛と韓国のスポーツの発展のために尽力されてきた故人の崇高な精神は永遠に残ることでしょう」と故人を悼んだ。また故人の功績を讃え体育勲章青龍章が授与された。
孫氏の弔問と告別式参列ののためソウルを訪れた在日韓国人作家の柳美里さんは、自身の亡き母方の祖父・梁任得氏が孫氏とかつてともに五輪を目指した陸上選手仲間であり、日本に住む孫氏の孫娘ウンギョンさんとも親しい間柄。
1994年には韓国で孫氏と対面し、祖父の競技活動について話を聞いている。
柳さんが現在、東亜日報と朝日新聞に連載中の『8月の果て』に書かれる祖父については、孫氏の証言などを参考にしている。柳さんはウンギョンさんとともに来年、年マラソンランナー・孫基禎を生んだ東亜マラソン大会に出場する予定。
孫基禎氏の遺体はオリンピック公園内国旗広場で出棺式を行った後、蚕室オリンピックメインスタジアムと万里洞にある孫基禎記念公園を経て大田の国立墓地に埋葬された。