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2002/02/15

<在日社会>「在日銀行」への道 4

 2001年7月16日、駐日韓国大使館7階会議室。崔相龍駐日大使が招き、主な出資者が初めて顔をあわせたときのことだ。崔大使は、次のように述べた。

 「今日集まった皆さんは、1776年のアメリカ合衆国が誕生した時の『建国の父』と同じ、『建銀の父』です。必ず銀行はできます。韓国政府がやる事業ですので、皆さん信じて下さい。みなさんはあくまでも個人の投資家としての利益を追求すればいいのです。それで銀行の運営が良い方向に進み、それで同胞の幸せにつながることは、日本と韓国の利益にもつながります。私は、私の全責任をもって、銀行問題を解決していきます。私はこの発言全部に責任を持ちますので、いまの発言をどうぞ録音しても構いません」

 崔大使はさらにこう続けた。「アメリカも建国の父がいましたが、その中には反対勢力がいました。いま我々の(在日同胞)世界でも、この銀行案に反対する勢力は大きくありません。皆さん、この銀行は必ずできますので安心して良いのです」

 それから14日後の7月30日、ホテルニューオータニーで、新銀行設立のための発起人会議が開かれ、名称を「ドラゴン銀行」(仮称)にすると発表した。韓昌祐・マルハン社長、金宰淑・在日韓国民団中央本部団長ら15人の発起人はほどなくして資本金167億円を指定された銀行口座に入金した。最高出資者は30億円だった。韓国政府は集まった資本金の半分を支援すると約束していた。

 「もう銀行実現は間違いない」と思わせるものだったが、一体、どこから銀行化のシナリオが崩れていったのだろうか。ドラゴン側に「晴天の霹靂」だったのは、競争入札になったことだ。「これまで在日信組の受け皿をめぐり競争入札になったことはないのに、なぜ今回だけ競って引き受けようとするのか、何とも理解できない。しかし、破たん信組の受け皿として銀行を設立するのだから、まずこの入札に勝たなくてはならない」状況に追い詰められた。

 だが、背水の陣で臨むべきだったが、金融庁との窓口として交渉にあたっていた駐日大使館をすっかり頼りにしていた。11月7日、発起人らは、破たん信組の資産実査を終えた世界的なコンサルタント会社であるPWC(プライス・ウオーター・コンサルタント)の4パターンの試算をもとに、最終協議のため大使館を訪れ、入札価格について報告した。大使館側の実務責任者、呉東煥・財経官は、入札価格報告を受けたその足で京都に向かった。競争相手である兪奉植近畿産業信組会長(MKタクシー会長)に入札を放棄するよう説得させるためのものだったという説明だが、発起人たちは「入札書類提出の前日に、ドラゴン側の入札価格を知った上でどんな説得ができるのか」と変に思っている。

 また、金融庁の指示により、12月12日に追加入札の機会が与えられ、すでにドラゴン側の不利が噂されていた天王山の関西興銀入札価格を引き上げるチャンスだった。だが、呉財経官は「金融庁の中原危機管理室長から入札価格から800億円もの差があると言われた」といっており、その差を埋めるためには管財人価格よりさらに高い簿価の2041億円にまで引き上げなければならない。それは無理と判断、結局256億円上乗せした。

 ところが、実際は800億円の差というのは関西興銀の帳簿価格とドラゴンの入札価格の差であり、近畿産業の入札価格との差ではなかった。中原室長が本当にそういったのか、呉財経官が聞き間違えたのか、いまとなっては闇の中だ。結果をみれば明らかのように、近畿産業との入札価格差は105億円しかない。「もし、800億円という誤った情報がインプットされていなければ、入札に絶対勝つためもう100億円ぐらい上乗せしたかもしれない」とドラゴン側は後になって悔やんでいる。