戦後最大のスーパースター、プロレスラーの力道山が不慮の死を遂げてから40年。力道山夫人の田中敬子さんがこのほど、「夫・力道山の慟哭」(双葉社)を緊急出版、生前の力道山のようすを語った。米国的で清潔好きだった私生活、日本、韓国、北朝鮮の3カ国に対する思いなど、力道山の素顔が浮かび上がってくる。
故・力道山(享年39)の夫人、田中(旧姓・百田)敬子さん(62)が、人気絶頂のプロレスラー力道山と結婚したのは1963年6月。しかし、半年後の12月15日、暴漢に刺された力道山は、病院で39歳の生涯を終えた。
田中敬子さんは当時妊娠中で、翌年3月25日、浩美さんを出産した。それから40年、一人娘を育てながら力道山の菩提を弔いつつ社会貢献活動などに従事してきた。
今年没後40年を迎えたこと、また夫の祖国である朝鮮半島と日本をめぐる状況に緊張感が漂う中、平和と友好を願っていた力道山の遺志を伝えようと、今回の手記執筆を決意した。
田中さんはまず死の直前のようすについて、手術室に運ばれるときに「敬子、死にたくないんだ、最善の治療をするように先生にお願いしておけよ」と話し、最後はうわごとで「おれは死にたくない」ともらしたエピソードを披露した。
出会いについても触れ、デート中はとても礼儀正しく、誠実な人柄にひかれたこと、婚約をした後、「北朝鮮の出身だって知っていたか、それでもいいか」と出生についての話になり、「噂は聞いていましたけど、あなたの口から聞けてよかった。あなたがいい人だったら何の問題もない」と答えると、力道山が感激して涙を流したことを明かしている。
結婚生活については、力道山はとても清潔好きで一日に何度もシャワーを浴びたこと、歯磨きも大切にしていたこと、米国式の生活が好きで高級家電製品をそろえていたこと、子どもが出来たとき、とても喜んでくれたことなどを語った。
最後に、力道山が「スイスに家を買って、娘(浩美)を学校に通わせたい。朝鮮半島がスイスのようになればいいなあ」と口にしていたことを紹介した。スイスは日本と気候が似ている、町並みが美しいことのほか、永世中立国であることをあげていたと明らかにした。新婚旅行でスイスを訪れたのも、将来のために見ておいたとのこと。
田中さんはアントニオ猪木さんと、38度線に力道山の銅像を立てる計画を進めている。「銅像の建立が日本と朝鮮半島の平和を願う上で、ぜひとも実現したいものです」と締めくくった。
◆ 力道山とは ◆
力道山は1924年11月14日、朝鮮咸鏡南道生まれ。朝鮮姓は金信洛、日本性は百田光浩。39年に後の養父・百田己之助にスカウトされ、朝鮮半島から単身日本に渡る。翌年二所ノ関部屋へ入門、49年に関脇昇進を果たすが、翌年自ら廃業。52年にプロレスラーに転向し、米国で修行。53年に帰国後、日本プロレスの基礎を築き上げる。63年12月8日、ナイトクラブで口論となり腹部を刺される。同15日に死亡。田中敬子さんは41年、神奈川県生まれ。日本航空スチュワーデス時代の63年6月5日に結婚。13回忌の後に百田家から籍を抜き、旧姓の田中に戻る。