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2004/08/13

<在日社会>五輪と私・重圧はね返し闘った

  • zainichi0813.jpg

    鄭利光氏㊧と金義泰氏

◆勝ちたいとの思い胸に・東京五輪柔道銅・金義泰氏(写真右・東京五輪出場時の金義泰氏)◆

 スポーツの祭典アテネ・オリンピックがきょう開幕する。オリンピックには過去、在日選手も数多く出場し活躍してきた。韓国代表として東京オリンピックに柔道中量級で出場、銅メダルを獲得して韓国柔道界に初のメダルをもたらした金義泰さん(63)と体操の韓国代表として出場した鄭利光さん(61)の2人に話を聞いた。

 オリンピックは4年に1回のスポーツ界最大の祭り。いまほど派手な演出や報道はなかったが、それでも通常の競技大会とは違う大きなプレッシャーを感じた。同時にスポーツ選手としての喜びと誇りを感じた。

 東京オリンピックのころの韓国はまだ貧しく、スポーツも発展していなかったので、韓国代表になるのは間違いないと思っていた。でもスポーツ選手としては、個人としてとにかくオリンピックに出たい、勝ちたいとの思いが先で、韓国や在日のためにもよかったとの考え、意識は正直大会が終わってからのことだ。

 銅メダルを取ったときは本当にうれしかったし、ものすごい重圧からこれで自由になったとの思いだった。

 当時のドイツやオランダとの選手とはいまでも交流しているし、スポーツ選手同士の交流は本当に国境を越えるものだと実感した。

 試合よりもオリンピックで困ったのは、費用だった。その年の3月に卒業して大会までの半年間の費用を両親が捻出してくれた。当時の在日の貧しい家庭で、半年間生活費は大金。息子の夢をかなえるために無理してくれた。いまも思い出すと涙が出る。

 韓国代表としての練習も大変だった。韓国語が出来なかったし、日本人と同じようにしか見られなかったこと、在日は日本で恵まれた生活をしているなどのやっかみがあり、孤立していた。ただ力が突出していたので面と向かって何か言われたことはない。当時の韓国の現状を考えれば仕方のないことかもしれない。それとコーチがいなかったので、何から何まで自分でこなさなければならなかった。

 メダルを取った後は周囲の反応も変わり、その後、天理大に戻って現在まで柔道を教え続けている。時代の流れかもしれないが、いまの柔道は格闘技としての武道の良さが減り、漢字の柔道から、ジュウードーというスポーツに変化した。最近はポイントを取って勝つ柔道が主流だが、私は選手には一本勝ちを目指す柔道をしてもらいたいし、天理大でもそう指導している。

 最近の南北の選手で武道を感じさせるのは、北の女子柔道のケ・スンヒだ。ともあれ、アテネオリンピックという大舞台で韓国、北朝鮮、日本の選手みな精一杯力を発揮してほしい。

◆世界に視野広げた・東京五輪体操出場・鄭利光氏(写真左)◆

 在日本大韓体育会関東本部の前会長、鄭利光さん(61)は、日本体育大学体育学部に在籍し、五輪めざし体操に打ち込む日々を過ごしていた。

 「当時日本の体操は世界的にレベルが高く、韓国は低かった時代だった。けがの影響で練習不足となり、力を十分に発揮できず120人中の中位に終わったが、でもあれだけ大きな大会に出場でき、世界には様々な人種がいることを知ったのは、いい勉強だった。視野が広がり、大きな財産になった」と振り返った。

 その後は渋谷、六本木などで料理店を経営しながら、スポーツを通した在日青少年の育成のために尽力している。

 国籍の壁で日本の大会への出場機会が少ない在日選手のために、韓国国体への出場をずっと呼びかけてきた。「スポーツはもちろん、在日3世が祖国を知り、同胞の友人を作る場にしてほしい」と話す。

 金義泰氏以外の在日オリンピックメダリストはいまどうしているだろうか。72年のミュンヘンに出場した男子柔道の呉勝立選手は、韓国選手団唯一のメダルとなる銀メダルを獲得し、朴正熙大統領か(当時)から勲章を授与されたが、いまは柔道から離れた生活を送っている。

 76年のモントリオールで銅メダルを獲得した男子柔道の朴英哲選手は、その後日本国籍を取得し、在日社会からは疎遠になった。

 日本国籍を取得して女子バレーボールのエースとしてモントリオールで金メダルを獲得した白井貴子さん(52)は、保険会社で女性社員向けのライフコンサルタントを長年務めたが、最近辞めてフリーになった。