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2004/04/23

<在日社会>◆在日商工人列伝◆パチンコ業界の最大手・韓昌祐 マルハン会長

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    ハン・チャンウ  1931年韓国慶尚南道生まれ。法政大学卒業。1957年遊技業「マルハン」創業。現在会長。在日韓国商工会議所連合会名誉顧問、世界韓人商工人連合会会長、財団法人・韓国文化研究振興財団理事長。95年韓国政府より「無窮花章」(勲一等)、99年日本政府より勲三等「瑞宝章」叙勲。2004年マーシャル諸島共和国政府より最高功労勲章を叙勲。

 衰えを知らないパチンコ産業。その業界最大手のマルハンを創業した韓昌祐(ハン・チャンウ)氏73歳。業界初の株式上場が来年にも実現する見通しだ。

 「6年ほど前から準備をすすめてきた。野村証券を幹事会社に中央監査法人の指導のもと、いつでも上場できる態勢にある。景品交換など法的な問題があって長引いていたが、最近、自民党から警察庁に対して<もうパチンコも公開してもいいのではないか>という話が出てきて、警察庁もOKしたと聞いている。これを受けて、証券会社が急に動き出してきている。私の考えでは、多分来年中には公開に踏み切れるのではないか。もちろん、条件を満たせば上場できるのだからマルハンが一番最初になるかは分からないが、いますぐにも上場できるガラス張り経営をしている」
 「私が考える上場というものは、社会から金を集めることが目的ではない。自分が45年間築いてきたパチンコ企業が社会に認知を受けることが一生の願望であり、ダーティーなイメージのあったパチンコを社会に認知させることによって、社員が上場企業の社員としてのプライドを持つことが重要だ」
 
 年間売上が30兆円近く達し、約3000万人がプレイする日本最大の娯楽産業。「非常に誤解の多いパチンコ業界だが、その誤解を打破するためには株式を公開していくしかない」
 大手町のビルの28階。事実上の本社機能をもつ東京支社で韓氏は長年の夢であった株式上場の意義をこのように強調した。
 マルハンの企業としての大きさは想像以上だ。2004年3月期の売上高9200億円、経常利益200億円。4月出店分を含め148店舗。1000台クラスの大型店が多いため、480台を標準店舗としたら170店ほどになる。毎年多くの新入生(今年は222人で4年制大卒150人)を迎え、現在の社員は6500人。全国でプレイをする会員が100万人を越えている。日本一の会員数だ。
 「来年の決算期には1兆2000億円になる。最近、米経済誌フォーブスで、マルハンは世界で上場していないプライベートカンパニーの中で売上高基準19番目にランクされていた。日本では1番が出光興産で2兆3000億円、2番目がサントリーの1兆2000億円、3番目が当社の9200億円。来年にはサントリーとうちが入れ替わるだろう。東京のディズニーランドの年間の来場者数が2500万人に対し、うちは7500万人と3倍だ。私が80歳になる2010年に売上3兆円を目標に社内に改革委員会を設けて、全社のシステム改革を開始、世界のありとあらゆる学者、経験者からコンサルティングを受ける体制を整えている」
 
 マルハンの全国各地への出店に対して、「在日のパチンコ屋を全部潰している」という批判がある。これに対しては、「韓昌祐は国賊だと言う人もいたが、バカなことを言うなと言いたい。いま日本全国に1万6000店のパチンコ店がある。その1万6000店舗の中にマルハンは148店、たった1%だ。企業は闘いであり、攻めなければ攻められる。私は座して死ななければならないのか」と反論した。

 「1945年10月午後11時、韓国の流浪者を運ぶボートが西日本の下関の海岸にたどり着いた。船上には韓昌祐15歳がいた」
 これは英国の高級紙・フィナンシャルタイムズ(4月24日付)が、「ギャンブル業界で成功を勝ち得た男、パチンコ王がついに帰化した国で受け入れられる」との見出しで大きく報じたインタビュー記事の冒頭箇所だ。15歳の少年が初めて日本の地に足を踏み入れてから58年。世界のパチンコ業界のトップに上りつめるまでには多くの苦労があったが、ハングリー精神とチャレンジ精神で乗り切ってきた。このインタビュー記事は、「差別が私を育ててきたのです」と語る韓氏の言葉で締めくくっているが、差別も肥やしにする気概をもっていた。
 「かつて銀行はカネを貸してくれなかったが、いまでは銀行の方から借りてくれという。また、日本のロータリークラブにも入れなかったが、いまでは京都の最も権威のあるロータリークラブの副会長である。民族差別にくじけず、ハン(韓)という名前を捨てなかった」

 そんな韓氏にとって、最大の苦境はボウリング場経営を失敗したときだった。
 「当時、42歳で負債60億円をかかえていた。だが、パチンコで返していき、知らない間に日本一になった。家族的には48歳の時、長男を亡くしたこことの痛みがあった」と振り返り、「今から9年前に渋谷店をオープンした時、次男の営業本部長が雑誌のインタビューに答えて、売上1兆円を打ち出した。それを聞いたとき、バカなことを言っているなと思ったが、実現した。今の30-40代は信じられないくらい頭のいい人が育っている。しかし、戦後生まれのこの世代はハングリー精神、チャレンジ精神に欠ける嫌いがある。われわれにこの精神を作っていく責任があると考えている」

「韓民族の誇りを失わずに日本国籍を取得した」--月刊誌「世界」(2003年3月号)に掲載された韓昌祐氏へのインタビュー記事の見出しだ。日本国籍を取得したのは2年前。なぜ70歳代にもなった今時期なのか、その理由を聞いた。

「私は20年前から日本国籍を取るべきだと思っていたが、それに踏み切れなかったのは、貧しい両親を見放して金持ちの日本に行ってしまうような気持ちがあったからだ。韓国は私の祖国であり、当時の祖国はまだ貧しかった。貧しいから金持ちの国に鞍替えするのかと、後ろ指をさされたくはなかった。しかし、いまや韓国は世界に誇るハイテク国家である。私にとって韓国籍でも日本籍でも商売上、大きな違いはないが、20代、30代、40代の若い世代が今後の生き方を早く見定めてくれれば、私の投じた一石は光るのではないだろうか」
 日本国籍取得に対して在日同胞には抵抗感もあるが、日本にかしずけと言わんばかりの帰化制度への反発が大きく影響している。また、一方でこれまでは帰化者の多くが出自を隠すように生きてきた。
 「在日同胞が帰化する際、山のような書類を作らなければならない。私は全国で店を経営しているので全国の許可証、過去何年間もの納税証明書を出したが、書類作成のために90万円もかかった。永住権を持つ者は届出だけで済むようにすべきだとつくづく思った。
私は韓国語読みの<ハン・チャンウ>の名前で申請したが、その時『もしハン・チャンウで出してもらえないのだったら法的根拠を示してほしい』と言った。役所は行政指導でやっていると言うので、行政指導が憲法に優先するのかと言ったら、ハン・チャンウで出してくれた」
 「日本国籍を取ると民族反逆者だという考え方があるが、国籍と民族を同一視する見方は間違っていると思う。私が日本国籍を取得しても私の血は韓民族だ。中国、米国など全世界に700万人いる海外同胞はほとんどがその国の国籍を取得して市民となり、その国の建設に貢献して、その国の政治・経済に関与している。日本国籍を取ったら韓国と永遠にさよならではなくて、逆に民族固有の文化、言葉を勉強しなければならないはずだ。民団も、国籍ではなく民族を主体にした韓人会というものをつくって出直してほしい」

 最近、在日コリアン弁護士協会が権利としての日本国籍取得を主張しており、帰化者の中から本名を名乗り日本の参議員選挙に出馬表明するなど新しい動きが起こっている。
「そういう若い人たちを応援したい。在日の生き方の問題でもあるが、民団が国籍問題を指導していれば、今頃は韓とか、金、李、朴という名字の国会議員や裁判官がいたはずだ」
韓昌祐氏は在日韓国商工会議所会長を歴任するなど在日民団社会で指導的な立場にあったが、民団の現状には批判的だ。
 「数年前に民団で6億5000万円の手形詐欺事件が起こったが、臭いものに蓋をして逃げてしまった。また、IMF危機時代に本国が死ぬか生きるかの状態なのに、民団は援助金を要請した。私の計算では当時、年間約150億円が民団、商工会、婦人会、体育会に流れて使用されていた。それを10%リストラしたら済むことではないかと言ったら、韓昌祐は民団を潰しにかかっていると訳の分からないことを言われた」
 「もう民団は現在の組織を解体し、少なくとも65歳以上は指導的立場に立って、若い人を中心に作り替えなければならない。いまはグローバル時代であり、もっともっと世界に羽ばたける多くのことがある。いつも本国志向で、古臭いことばかりやっていては誰もついてこない」

 2001年末、「ドラゴン銀行」と名付けられた在日銀行化構想が土壇場で挫折した。出資金集めに主導的に動いた韓氏にとっては大きな誤算だった。
 「その年の5月30日、私は米国ニュージャージーのディクソン大学にいたが、崔相龍駐日大使(当時)から緊急に来て欲しいという電話があったとの連絡を会社から受けた。急いで仕事を終えて大使館へ行ったら、大使は私に、『私は在日の民族の財産と生命を守るために来ている。今このようにばたばたと倒れている在日の金融機関を立て直さなくてはならないので銀行を作ろうと思う。日本と韓国で完全に約束が出来ている』と言った。日本で200億円の金を集めたら韓国政府が100億円出資するので300億円でやりましょうと。大使の案は孫正義氏が50億円、平和の中島氏が50億円、ロッテが50億円、マルハンが50億円だった。大使がそこまで言うのだからと信用した」

 そして、韓昌祐氏は自ら20億円を出資、知人らに呼びかけて10日間で200億円を集めた。ところが出資金は集めたが、在日破綻信組の引き受けは入札にかけられた。
 「まさか、政府間の合意ができているというのだから、入札になるとは思いもよらなかった。後で分かったことだが、崔大使は平和の中島氏には会ったこともないし、話したこともない。孫正義氏とも会ったこともないし、話したこともない。私に依頼した後、ロッテに行って断られている。登記料として5億7000万円を使っており、私は韓国政府に対し裁判を起こそうと言ったが、出資者は同調してくれなかった」
「しかし、振り返ってみたら、銀行が実現していたならば、今のマルハンはなかったと思う。在日にはパチンコ業者が多く、「ドラゴン銀行」から金を借りている業者の横にマルハンは出店できないからだ。それにしても、60万人の在日がいて銀行1つない国があるだろうか」

 「ドラゴン銀行」に対しては批判も多かった。
 「私たちは絶対ここから金を借りないことを固く約束した。ではメリットは何かといえば、発起人として名を連らね、50年後、100年後に私たちの孫が『この人たちが在日の銀行をつくったんだ』といってくれたら大変な名誉ではないか」
 若い頃はクラシック音楽喫茶を経営、3年前からは東京・池袋で映画館「文芸座」を運営している。季刊誌「青丘」の発行をはじめ15年前に韓国文化研究振興財団を設立、文化活動の振興に尽力している。文化を重視する理由を聞いた。
 「私は若いときからフランスの絵画とか音楽に触れてきた。今は忙しくてそういう時間がなかなか持てないが、経済人は金儲けだけでなく文化を理解し、育てる義務があるというのが私の持論だ。そういうことで韓国文化研究振興財団も作った。
 韓日関係において過去36年間の日帝の支配は長い歴史からみるとほんの短い期間であり、むしろ朝鮮王朝時代(李朝時代)など仲のいい時代が長かった。だから我々も過去のことにこだわって喧嘩ばかりしていないで、未来に向かっていくことが必要だと思う。そのための研究活動を支援している」
「日本人はあまりにも韓国を知らなさ過ぎる。韓国は何かあるとすぐカッとなって、被害者意識になる。これを埋めるためには、お互いの文化の交流や韓日が共催したサッカー大会などスポーツ交流をどんどん増やし、仲良くなることが何よりも大事だと思う」「我々は過去を忘れることはできないけれども、許すことはできる」

 その財団も時代に合わせて衣替えする。
「財団はこれまで、考古学者などを中心に研究助成金や補助金を与えることが主な業務だった。今度、財団の定款を改めて、音楽、映画、美術、小説など在日の芸術家の活動を本格的に支援する考えだ。社会福祉やスポーツについても、これからはもっと積極的に支援したい。まず、25号で休刊となった「青丘」も復活させ、在日のオピニオン雑誌として国籍問題などのいろいろな特集も組んでいきたい」
 「わが社も205億円の利益をあげるまでになったが、その1%をいろいろな形で社会に還元したい。特に、素晴らしい才能を持っている在日に対する支援に本格的に取り組みたい。財団の名称も<韓昌祐文化財団>に変え、会社から制度的に資金を提供できるようにする考えだ」

 在日は日本社会におけるマイノリティー(少数者)であるだけに矛盾・葛藤も多いが、その分だけ文化的な潜在力も大きい。だが、これまで十分開花されなかった。韓昌祐氏は経済人の使命としてその開花に全力をあげるという。
 「文化を普及させるということはやはり自分の心の豊かさもさることながら、在日にとっては差別に打ち勝つことにも直結する。自分を高めなければ対等に話ができないが、文化、芸術に疎いために日本人と対等に話ができないことがある。そうなってはならない。それほど文化は大事なものであり、これからも私は在日の文化をいろいろな面で応援していきたい。若い世代の才能の開花のため余生を捧げるくらいの考えでいる」

 文化と教育は密接不可分の関係にあり、韓昌祐氏が抱く最後の夢は在日のエリート教育である。
 「在日のためのエリート教育を実施できる学校をつくる考えだ。本当の国際人として世界に羽ばたけるように、教授陣も最高の人材を揃えたい。最近、在日で京大を出てMIT(マサチューセッツ工科大学)で講師をしている梁富好という人が書いた学校経営に関する本を読んで非常に感銘を受けた。その本には、『日本人以上に閉鎖的で、日本人以上に国際性を持たない今日の在日コリアンは世界に例を見ない』と書かれていた。在日は在日を捨てて、地球村の1人として世界に飛び立つ意識革命が必要であり、自由な発想を持ち、グローバル・スタンダードを身に付けた若い世代をどんどん育成することが在日の使命だとも言っている。この人は朝鮮学校を途中でやめて独学で京大に入り、米国に留学し博士号を取得した人だ」

 韓昌祐氏は、韓日両国から勲章を受章するなど多くの表彰を受けているが、最近南太平洋のマーシャル諸島共和国から勲章を贈られた。
 「昨年6月、天皇陛下の招待で来日されたケサイ・ノート大統領(戦時中に日本人の父親のもとに生まれた2世)と迎賓館でお会いした際、『何かお土産としてマーシャルに必要なものはありませんか』と聞いた。すると、閲兵式の吹奏楽器をと言われた。それで28人分の吹奏楽器一式を送った。後で分かったのだが、マーシャル諸島共和国の国歌は歌手パティ・キムの夫の故吉屋潤が作曲しており、池という韓国人の大統領経済顧問がいるなど因縁のある国だ。10月に招待され在日韓国商工会議所のメンバーと共にマーシャル諸島共和国を訪れたが、この国の人は米国の原爆犠牲で援助を貰うようになって皆働かなくなったという。私はこの国のために何かしたいと思っている」

 「私は残された人生、これから何年生きるかわからないが社会奉仕に捧げたい。自分を生んでくれた韓国、自分を育ててくれた日本、この両国にもっと貢献したい。同時に私はグローバルな何らかの援助をしたい。原爆被害のマーシャル諸島や朝鮮族が24万人貧しい生活をしているウズベキスタン。世界には50万円、100万円あったら民族学校を維持できる国がいくらでもある。経済人がすべき使命は大きいと強く感じている」