在日3世の人材育成コンサルタント辛淑玉さんが、85年に人材育成会社香科舎を設立してから、20周年を迎えた。均等法施行(86年)とほぼ同時に歩んできた同社は、主に女性の人材育成に取り組んできた。20年前に新人研修を行った人たちが、いまでは部長、支店長、または起業家となり、さらには脱サラして農業を始めた人もいるなど、数多くの人材を輩出してきた。さらに辛さんは、在日コリアンを始めとした外国人の人権問題など、社会問題についても積極的に活動し、歯に衣着せぬ発言で多くの人に勇気を与えてきた。20年を振り返った辛さんのメッセージを紹介する。
1985年2月1日。
東京都足立区の自宅の机ひとつで会社を始めた。女で、在日で、無学である。失うものは何もなかった。動いた分だけしか世界は広がらない。だから体力がもつ限り働いた。
男社会で女が認められるためには男の2倍、さらに、在日だからまたその2倍の4倍働かなければならない。そして学歴がない分、信頼を勝ち取るためには結果を出し続けなければならなかった。
私にとって仕事とは、常に能力、体力、時間といった自己の限界との勝負だった。同時に、仕事を遂行するための環境作りは、仕事以上に厳しかった。
そもそも、事務所を借りることができないのだ。まず独身の女ということで断られ、次に日本人ではないということで断られ、運良く借りられてもバブルのさなか、もっといい客に貸すために更新を拒まれる。
さまよえる事務所と言われ、20年で10カ所近くも転居した。銀行の融資も、女、独身、在日の3点セットでことごとくダメだった。月5000円のリースですら日本人の家持の保証人2人を求められ、高校生でも持っているデパートのお買い物カードですら、外国人ということで断られた。
大企業へのプレゼンテーション時には日本名での自己紹介を求められ、研修現場では「センセイがあちらの方とは思いませんでした」と高齢の受講者に席を立たれたこともある。
その一つひとつを、実力ではね返していかなくてはならない。89年の国際博覧会のとき、人材の採用、教育、運営、管理を担当し、当時の入場者数日本記録を塗り替えたことで社会的認知を得、結果を出せば勝負ができるのだと感じた。
86年の均等法施行以降、バブルの中で、企業はそれまで見向きもしなかった女性の活用に踏み切るようになり、そしてバブルの崩壊後、リストラのために首を切ろうとしたとき、意外と女性や学閥出身でない者の中に優秀な人材がいるのを見出し、ここから学閥や人間関係で採用するという鉄の牙城が崩れ始めた。
そして、低迷する経済の中で芽を出してきた企業の多くが、「人権」を確実に組織の中に取り込んで勝負をかけてきている。女性差別、女性への暴力(セクシュアル・ハラスメント)と向き合うことが、実は生産性を上げることにつながる、差別などしていられるほど企業経営はヒマではないということに気がついたのだ。
そして、それを後押しするように、社会的責任投資という概念がアメリカ発で飛び込んできた。グローバルな経営を試みるなら、企業は、働く者に対しても、地域社会に対しても、社会的責任を果たさなければならなくなったのだ。
気がついてみると、弊社の主要な商品である「研修」の8割は、人権、国際化、コミュニケーションといった内容になっていた。弱肉強食の経済界の中で、この「人権」意識がどこまで根付くか。これによって、日本の将来を左右するであろう移住労働者たちの人生が決まる。
設立21年目を迎えて、私の仕事はこれからが勝負なのだと、気持ちを新たにしている。
シン・スゴ 1959年東京生まれの在日3世。株式会社香科舎(東京都中央区銀座3丁目)代表。人材育成コンサルタントとして活躍する一方、人権、教育問題などで東京都や神奈川県の審議会え委員など多くの公的活動に従事。著書に『となりのピカソ』『鬼哭啾啾』など。