8月15日は光復節(祖国解放記念日)。今年で解放60周年を迎えた。在日にとって8・15とは何か、各界の在日コリアンに語ってもらった。
◇教育の大切さ実感 徐 龍達さん(73、在日韓国奨学会理事長)◇
解放当時は中学1年生の子どもだった。日本帝国の教育を受けていた私は、日本が負けたと知って悔しかったことを日誌に書いている。
その自分の経験に照らして、本当に教育とは恐ろしいものだと思う。だからこそ逆に民族教育、平和教育の大切さが実感できる。
植民地支配のくびきを取り除いた解放の意義は、いまだに光り輝いていると思う。戦後60年、韓国は驚異的な経済発展を成し遂げ、世界的な企業も生まれている。政治的な自立には経済的な自立が不可欠であり、世界的な企業をもっと増やしてほしいと願う。
在日社会にとっても光復節は、独立と自由の精神を思い起こす日だ。在日組織はこの間、活性化への言論が乏しく、金権体質がまん延してきたが、私たちが歩む道をもう一度再確認する日にしてほしい。
◇祖国の過去を思う 李 須恵さん(30、高麗美術館研究員)◇
解放記念日である光復節を知ったのは民族学校の学生のころでした。授業のなかで「光復節」という言葉をはじめて耳にした気がします。
学校外では特にメディアを通して過去の歴史に触れるとき、かならず「在日」というものを意識しました。それは自分のルーツに対していつも意識していたからだと思います。
日本に住みながら、日本人と変わらない生活を営むなか、やはり8・15が近づくと自分がいまここにいることを改めて考えさせられます。
学生のころは、なぜ自分が日本に朝鮮・韓国人として生まれ、生きていかなければならないのか、なぜ敢えて日本だったのかと悩むことがありました。
しかしさまざまな経験を積み、自分が「在日」という特殊な位置におかれたことを素直に受け入れられるようになりました。
光復節は、祖国の過去を思い、日本に生まれた私自身のルーツを再認識する日です。
◇言葉を取り戻した 金 裕鴻さん(72、語学教師)◇
解放当時、私は小学校5年生でソウルにいた。夏休みで祖父母の住む村で過ごしていたが、8月15日、日本人の巡査から駐在所に集まるようにいわれ、村人全員で玉音放送を聴いた。
意味がよくわからなかったが、駄菓子屋を営む長老が、片言の日本語で「日本が負けた」と叫び、みなが一斉にどよめいたのを覚えている。
夏休みは残り2週間だったが、母から「これからは韓国語を勉強しないとだめ」と言われて、その2週間、韓国語の読み書きを学んだ。小学校に入学したころには皇民化教育ですでに韓国語の授業が無くなっていたので、祖父母や両親と話す以外、韓国語のできなかった私は、この2週間が大きな転機となった。
新学期に学校に行くと、日本人の先生はいなくなり、韓国人の先生だけの授業になっていた。街頭では連日、歓声が起こり、韓国語の歌が歌われていて、すべてが生まれ変わった印象だった。
私にとっての解放は、土地や建物が戻ったという物理的なものより、言葉を取り戻したという精神的な誇りが大きかった。
だが、それから数年後に起きた韓国戦争は悲惨だった。私は中学生になっていたが、村に北の人民軍が入ってくると、労働新聞の記事を毎日読み聞かされた。
人民軍に殺された人、逆に韓国軍に殺された村人など、悲惨な現場も目撃した。友人の父親も殺されたのはショックだった。
今考えると祖国解放は喜びであり、苦しみのスタートでもあった。先日、ソウルで南北サッカーがあったが、見ていて目頭が熱くなった。二度と戦争を起こさず、平和統一に向かっていってほしいと願う。
◇平和の大切さ知る 金 徳子(60、コリアン料理研究家)
在日であることを隠して生きていたので、解放記念日というのを考えることはなかった。
20歳前後のころ、民族の歴史や言葉について学ぶ機会があり、初めて日本でいう「終戦」でなく在日韓国人にとっては「民族解放」なのだと知った。
植民地時代を生きて苦労を重ねて親の世代が受け止める解放と、私たちが受け止める解放では温度差は当然あるだろうが、多くの在日にとって民族に対して思いをはせる日であることは確かだ。
私は山口県で育ったので、小学校の旅行では広島の原爆ドームを見学した。いまはきれいになっているが、当時はまだ戦争の匂いというか、焼け跡の匂いがドームからしたのを覚えている。子供心に戦争は恐いものだと思った。
8・15は戦争の悲惨さ、平和の大切さに心をめぐらす日でもある。在日や日本の若者に、微力ながらでも平和の大切さと韓日の歴史を伝えていければと思う。「許すけれども忘れてはいけない」、これが韓日に必要な精神だろう。
また在日が日本で堂々と生きるには、各個々人がレベルアップをしていく必要があると思う。