韓日友情年記念シンポジム「日韓文化交流の未来」(主催は韓日文化交流会議・日韓文化交流会議が15日、東京・築地の浜離宮朝日ホールで開かれた。金容雲(キム・ヨンウン)・韓日文化交流会議座長=漢陽大学校名誉教授と平山郁夫・日韓文化交流会議座長=東京芸術大学学長が基調講演を行い、歴史認識の共有化と韓日文化交流の可能性について語った。
基調講演で金容雲さんは、「文化的にも生物学的にも近い両国の交流深化に期待する」と述べ、平山さんは「戦争を体験した者として平和の大切さを強調したい」と訴えた。
第2部のパネルディスカッションでは韓日の有識者4人が報告した。鄭求宗(チョン・グジョン)・東亜ドットコム代表理事は、「韓日友情年で多くの行事が準備されていたが、独島(竹島)問題や歴史教科書問題で一部中止を余儀なくされた。しかし多くは韓日両市民の努力で予定通り進められている」として、「この市民レベルの交流拡大が政治的な問題も解決に向かわせることを期待したい」と話した。
李柱益(イ・ジュイク)・ボラム映画社代表理事は「米国や欧州ばかり見てアジアを避けてきた日本、日本を見ることに抵抗のあった韓国。それが長い年月が過ぎて両国とも相互に相手を見るようになった。これからは両国が協力して文化コンテンツを開発し、ウィンウィンの関係になろう」と強調した。
韓国通の女優として知られる黒田福美さんは、「韓国人は日本の先進文化に関心があっても、それを口に出せない『日本へのねじれた憧憬』があった。それが98年の日本の大衆文化開放で、日本文化への関心を表立って言えるようになった。一方の日本は韓流を通して『韓国への憧憬』が始まった。私が韓国への関心を持ち始めたころには考えられないことだが、韓国語が出来ることがステータスにさえなっている。両国はそれほど近い関係になった」とこの間の変化について説明した。
そして「(ドラマや映画だけでなく)より広い多様な交流が求められる時代になりつつあり、両国市民もそれを求めている」と強調した。
◇韓日の源流は同じ 金容雲(韓日文化交流会議座長)◇
私は日本の品川で生まれたが、学校で「関東大震災の時に父が朝鮮人を殺した」と自慢げに語る同級生を見て驚いたことを覚えている。成長していく中で、機雷を受けて沈没寸前の船から日本人が優先的にボートに乗っているとき、朝鮮人にボートの席を譲って死んでいった青年の存在、また満州から多くの日本人がソ連軍から逃げている最中、日本人家族を助けた純朴な朝鮮人一家の話を知った。最近では新大久保駅でホームから転落した人を助けようとして亡くなった李秀賢さんの行為を知った。これこそ人間の原点、ヒューマニズムであり、その実例を韓日の人々が見せてくれた。
日本の昭和天皇が全斗煥元大統領を招いての宮中晩餐会で、「古代日本が統一国家を作るとき、韓半島から多くの人が渡ってきた」と話したことがある。2002年にはいまの平成天皇が「私には百済の血が流れている」と語った。韓日は文化的にも生物学的にも同じ源流から来ている。源流が同じで、しかも400万人が相互往来している。両国関係が一部の政治指導者の発言に左右されることはないだろう。
◇日本は平和に貢献を 平山郁夫(日韓文化交流会議座長)◇
高句麗は日本にとって仏教文化の出発点の国だ。飛鳥寺を作ったのも韓国から来た僧だ。高松塚古墳やキトラ古墳の壁画も渡来人がもたらした絵の具によって描かれた。日本の古代政権はこのように朝鮮半島から大きい影響を受けている。江戸時代は鎖国政策をとっていたが、その中でも朝鮮通信使の往来は続けられた。
しかし、1910年から日本が朝鮮半島を植民地支配した。また日本の敗戦直前、私は広島出身で同級生を原爆で失う経験をしている。日本が1カ月早くポツダム宣言を受諾していたら、広島・長崎の原爆被害はもちろん、満州(中国東北部)で一般人やが逃げまどい残留孤児が生まれることも、70万人の兵士が捕虜となる悲劇もなかったろう。さらに朝鮮半島の南北分断もなかったはずだ。
日本はその経済力で平和に貢献をしないといけない。今、歴史認識の問題が起きているが、正しい歴史を伝え未来志向で進むことが東アジアの将来にとって大切だ。